COLUMN ビジネスシンカー

2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

村長を辞めて、相場師となった鉄道再建王

 明治時代は、鉄道網の整備、大型汽船による大量輸送網が急速に発達した時代だった。

 よって輸送機関を使って事業を興した企業家は少なくない。まるで現代において、インターネットで一旗揚げようと起業するネットベンチャーのようだ。

 その代表格が阪急電鉄グループの創始者小林一三(こばやしいちぞう)であり、数々の鉄道を再建し、鉄道王とも鉄道再建王とも言われた東武鉄道の経営者となった根津嘉一郎(ねづかいちろう)、その強引な企業買収から"盗人"揶揄された東急電鉄グループの五島慶太(ごとうけいた)、その五島と張り合った西武鉄道グループの堤康次郎(つつみやすじろう)などが挙がってくる。

 このうち根津と小林は奇しくも同じ山梨県出身だった。

 根津は1860年、農業を営みながら雑穀業や質屋業を営む豪農の家に生まれている。18歳で役所の所員となると、その後、親の反対を押し切り山梨県会議員に立候補、当選。さらに村長となるも1897年、37歳の時に村長を辞めて、株の相場師となっている。

 根津が株の相場師となったのは、地方政界に限界を感じ、中央政界で活躍したいと思ったからだと言われている。相場師はそのための資金づくりで、旧知の同郷の若尾逸平が勧めによるものだった。

 若尾は根津に「これからは電灯と乗り物だ」と説いた。これを受けた根津は若尾の説くように、東京電灯(現在の東京電力)の株をはじめ、貿易関連の株を買い進めていった。株式相場は折しも日清戦争の特需で急騰する。だがその後暴落、大半が紙くずとなった。ただメインの東京電灯だけは若尾と買い進め、1899年には大株主として監査役に就任することになった。

 この監査役就任が根津の人生を変えていった。すでにこの頃には中央政界への関心は薄れて、事業家として野心が勝っていた。

 1901年には、日本初の私鉄である「東京馬車鉄道」の監査役ともなり、鉄道事業に本格的に関わっていく。根津は当時東京を走っていた東京市街鉄道、東京電気鉄道を合併すれば経費節減となると読み、東京府知事などや渋沢栄一などに働きかけ3社統合を果たし、新会社東京鉄道の取締役となる。

 3社統合が実現したのは、東京電灯時代に経費節減で実績を上げたことや、政治家としての経験がモノを言ったようだった。

 次に根津は経営難に陥っていた東武鉄道の再建に社長として乗り出した。東京電灯での実績を買われての社長就任だった。

 明治から大正期にかけては、日本の各地にまるで菌類が増殖するように鉄道網が広がっていった。とくに都心から郊外に伸びる線路のデスティネーションとなったのは観光地で、とりわけ巨大で有名な寺社仏閣がある場所は集客が見込めるため、一番の目標となった。

 当時の東武鉄道は亀戸と埼玉県の羽生のみの営業区間で、根津は日光まで延伸させる構想を持っていた。その実現には2つのハードルがあった。

 1つは莫大な費用がかかる利根川の架橋。もう1つは日光の旅館業者の反対だった。鉄道が延伸すれば、都心から日光まで日帰りされてしまう懸念があったからだ。

 反対の急先鋒は東照宮の宮司であった。根津はその宮司に「それは同じ人数を数えているからで、鉄道が延びれば2倍、3倍のお客が来る」と説得した。

 利根川の架橋については、リストラや本社の移転などで費用を捻出し、ついに浅草から日光までの延伸を実現する。すると根津が言ったように日光の参拝客は30万人から100万人に伸びたのだった。

 根津はこうして経営難に陥った鉄道会社を次々と立て直していく。生涯に事業に関わった鉄道の数は24社にのぼった。また鉄道だけでなく、社会事業にも努め、武蔵大学の前身である武蔵高等学校や、地元山梨県の小学校や図書館の建設を援助し、県下のすべての小学校にピアノを寄贈している。このほか、美術品などのコレクションにも熱を入れ、後年「根津美術館」として公開されるようになった。