COLUMN ビジネスシンカー

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2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

幕末の紛争期、銃器店で一儲けし、自費で外遊した大倉喜八郎

 三菱の発展は、岩崎の長崎での体験を元に、武器や船舶を取得したことが、その足がかりとなったが、同様に混乱期に武器に目をつけて財閥を築いた人物がいた。帝国ホテルやホテルオークラ、大成建設、サッポロビール、あいおいニッセイ同和損保、日清製油などの大倉グループの創始者、大倉喜八郎だ。

 大倉は1837年に新潟の新発田(しばた)の商家に生まれた。17歳の時に上京し、3年後に「大倉屋銃砲店」を開業する。当時は国内のあちこちで争いが起こっている時代、大倉は銃が時代の必需品と読み、江戸と横浜の外国商人との間を往復しながら、短期間で富を築いていった。

 大倉はこの金をもとに1872年、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどを歴訪している。皇族でも海外渡航が難しい時代に自費で渡航できたことは、いかに銃器が儲かったということであり、時代を読んだ大倉の眼力には驚かされる。

 渡航の目的は「出貿易」だった。大倉によれば、従来の日本は日本に居ながら貿易をする「居貿易」で、これからは外国に出て貿易をする出貿易の時代だというものだった。

 帰国後大倉は「大倉組商会」を設立する。資金は、自己資金に旧新発田藩主や、昔、小銃を提供し支払いを猶予した旧津軽藩の津軽家が恩義で出資した。

 大倉組の飛躍のきっかけは台湾出兵であった。すでに三菱の岩崎などが政府に船を用立てたが、台湾での兵舎の設営などは危険が伴うため、三菱や三井といった御用系の商人は現地入りを渋っていた。

 そこで大倉組は台湾征討軍の現地での補給支援に手を挙げる。台湾では大倉自身が指揮を取ったが、疫病などで人夫128人を失う難事業だった。しかしこの生死をかけた仕事が評価され、その後日清、日露戦争の際、政府に武器などの兵站(へいたん)で協力、政府との関係を強めていった。

 ただ動乱や戦争に乗じて富を蓄積する大倉に対して、いつしか世間は"死の商人"と呼ぶようになる。

 大倉は政府とのパイプを生かして、次々と新規事業を始める。1887年には、藤田組(藤田観光などのフジタ財閥の前身)ともに日本土木会社を設立し、皇居造営や帝国ホテル、佐世保軍港の建設など国家的事業を手がけた。

 また軍用の需要が多かったことから皮革製品の製造、製靴事業なども手がけた。このように軍需のあるところに大倉は積極的に事業展開していったが、本人は軍国主義な考えはなく、商売が成立するのであれば、組む相手は誰でもよかった。

 また大倉は社会的事業にも熱心で、大倉商業学校(現・東京経済大学)や台湾協会学校(現・拓殖大学)を設立に関わったり、文化財の散逸を防ぐために東洋美術の収集を進め、大倉集古館などもつくっている。

 大倉は明治を代表するような豪胆で意欲的な商人で、その情熱と体力は晩年になっても衰えなかった。88歳の時には、「自分の所有地の一番高いところに登りたい」と南アルプスの3121mの赤石岳(あかいしだけ)に登頂し、世間の度肝を抜いた。

 事業意欲ももちろん晩年になっても衰えず、90歳で亡くなる前年まで大倉財閥のトップとして君臨し、愛人を別邸に住まわせ80を過ぎて2人の子どもをもうけている。まさに明治の時代を自在に生き抜いた人生だった。

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