COLUMN ビジネスシンカー

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2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

天秤棒を担いだ行商から伊藤忠、丸紅の巨大商社の礎を築いた近江商人

 明治はまさに鎖国が解かれ、海外の物質文明、技術、文化が怒涛のように流れ込んできた時代であった。当然海外との取引に関心を持つ企業人が増えてもおかしくなかった。日本特有のビジネスモデルに総合商社があるが、その萌芽はこの明治期にあったようだ。

 2016年には総合商社として売上トップの座に就いた「伊藤忠商事」、そして5大商社の一角を占める「丸紅」。この2つの創業者となっているのが、近江の行商人の家に生まれた伊藤忠兵衛だ。

 行商は近江商人の伝統的なビジネスモデルだが、伊藤は15歳から叔父について京都や泉州、紀州などに天秤棒を担いで、問屋や小売に麻布や帷子を卸していた。伊藤は幕末の混乱期、諸般の規制が緩んだタイミングで、下関や長崎にも足を伸ばし市場を開拓している。機を見るに敏な現代の商社マンの片鱗が伺える。

 1872年に伊藤は長年開拓してきた九州の市場を兄、長兵衛の本店「紅長」に譲る。これを機に行商を辞め、大阪に番頭と二人で呉服商「紅忠」を開いた。紅忠の登録商標は紅の文字を◯で囲んだものとし、屋号を「伊藤本店」とした。

 1886年には、次男精一の誕生(後の二代目忠兵衛)を機に伊藤西店を開いて、イギリス、ドイツに店員を派遣してラシャを輸入、その卸をはじめている。これが後のアパレルの伊藤忠の素地に繋がっていった。

 精一は18歳になると二代目忠兵衛として伊藤本店に入店。4年後店主となると特色を出すべく、自らイギリス留学に出発、ヨークシャーの商工学校に入校する。そこで綿や毛織物の取引や手形割引などを学び、そこで築いたネットワークで代理店を通さない取引を実現していった。

 1914年に伊藤忠合名会社として法人化を図ると、18年に持株会社化して、国内取引用の「伊藤忠商店」と海外向けの「伊藤忠商事」を誕生させる。さらに21年に兄の長兵衛の店と、伊藤忠商店が合併し、株式会社丸紅商店が誕生、ここに伊藤忠と丸紅という二大商社の基盤ができたのである。

 代々の商家に生まれたとは言え、天秤棒一本から巨大商社を2つも築いた伊藤忠兵衛の経営力は、時代の先を読む慧眼に集約されそうだが、そのバックボーンには、近江商人のDNAが組み込まれているようだ。

 伊藤は利益を「本家収め」「店舗積立て」「店員配当」の3つに分け、管理する「利益三分主義(りえきさんぶんしゅぎ)」を打ち立て、以後、続けている。封建社会において、店員は一人前になるまでは奉公人とみなされ、最低限の給金しかなかった時代に、従業員にも利益分配を謳ったことは、現代においても十分先進的な経営モデルだったと言える。

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