COLUMN ビジネスシンカー

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2021.06

アフターコロナ時代を生き抜く技術発想
プリンタとエンジン技術の関係とは・・・
技術の応用力を磨け!
あの技術はこう生かされた!

自動繊維技術から始まった
トヨタ、スズキ

工作機械メーカーの流れを見てわかるように、どの技術を活かして業容を大きくするかは、目先ではなく、社会環境や未来を見据えた長期視点が大切になるのはいうまでもない。過去を振り返ってみると時代の花形市場を捉えて、そこに現有技術の強みを活かす道を考えることが極めて重要だ。

日本を代表するトヨタ自動車もそうだった。もともとは豊田佐吉氏が開発した世界初の「無停止杼換式豊田自動車機(G型)」をはじめとする織機を生み出した豊田自動織機製作所の1事業部門として誕生したのがトヨタ自動車の起こり。佐吉氏が自動織機開発に力を注いだのは、当時の繊維産業が花形であったことに加え、海外製の自動織機があまりにも高額だったことがある。

佐吉氏が開発に勤しんだ明治末期から大正時代にかけては、繊維産業の市場が拡大の一途をたどっていたが、その生産機械である機械は国産の地機織が2~3円、高機が10~15円ほど。対して輸入品は300から400円とまさに桁違いのの高額機械だった。佐吉氏は開発の手間と時間をかけてももとをとれるばかりではなく、輸出品としても勝負できると踏んでいたようだ。G型自動織機は当時世界の最高峰と名高かったイギリスのプラットブラザーズがその優秀さに瞠目し、特許の譲渡を求めてきたほどだ。

佐吉氏は亡くなる前年の1929年に同社に対して「日本・中国・米国を除く国々でG型自動織機を製作・販売する権利を与える」という契約を認めている。

この高い技術をベースに佐吉の事業を継いだ息子の豊田喜一郎氏。喜一郎氏は、佐吉氏が亡くなる直前まで欧米を視察し、「これからは自動車の時代」と確信していた。自らも東京帝国大学工学部出身の技術者であり、父の織機開発を手伝っていた喜一郎氏にとっては、自動車開発こそ自分がなすべき道だと考えていたのだと思われる。

ただ、いかに佐吉氏のつくった自動織機技術が優れていたとは言え、その技術をもって国産自動車を開発することは高いハードルがあった。自動織機に使われる部品や部材の数と自動車は比較にならなかったからだ。それでも自動車開発を成し遂げることができたのは、自動織機づくりを通じた技術革新とその材料となる鋼の鍛造技術が上がったからと考えられている。鍛造技術は現在でもエンジンには欠かせない技術で、エンジンのほかクランクシャフトなどの開発にも応用されている。しかしそれだけでは自動車の開発は不十分だった。それゆえ鋼の鋳造技術やプレス技術、電装部品の開発製造などの技術については、それぞれの会社を設立するなどして自前化を図っていった。それが現在に連なるトヨタの強固なサプライチェーンにつがったと考えられている。

また事業化のタイミング的にも良かったようだ。佐吉氏が得た特許料は現在の100億円ほどで、新規事業への投資には十分なものがあった。

織機メーカーの技術を活かして自動車メーカーとなったのは、豊田佐吉氏が生まれた現在の湖西市に近い浜松市に本拠を置くスズキもそうだ。

スズキの創業者である鈴木道雄氏は1909年に鈴木織機製作所を興した人物。1930年代半ばに織機の先行きに疑問を抱き、新たな事業分野を模索した。

その時に目をつけたのが小型自動車である。1936年にオートバイエンジンの試作にこぎつけ、39年には自動車用エンジンの試作を実現している。周囲の環境にも恵まれていた。当時の浜松には国の鉄道院の工場があり、機械加工や金属の鋳造、塗装などの工場やその技術者が集まっていたのだ。ある資料によれば昭和4年(1929年)の浜松一帯には金属関係が4工場、機械器具関係が33工場あったが、昭和10年(1935年)には金属関係162工場、機械器具関係158工場と急激に増加したとある。こうした鉄道関連の技術へのアクセスが容易だったことも、同社の自動車の開発製造を後押ししたようだ。

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