COLUMN ビジネスシンカー

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2022.07

【Basic Selection】
混迷の時代だからこそ。経営者でなくてもきっと響く!
噛みしめたい
名経営者の言葉 50選

世界的企業を作り上げた
昭和のカリスマ経営者たちの
言葉

 ソニーをつくった井深と盛田が異業種の同志として意識していたのが、ホンダ(本田技研工業)だった。
 ホンダの創業者、本田宗一郎もいまなお多くの書物が書かれ、現代の経営者を揺さぶり続けている名経営者の一人だ。井深とは親友だった。
 気に入らないことがあると、「口より先に手が出た」と言われるほど、熱しやすい本田だったが、井深や盛田と同様、エンジニアの夢を実現させる環境づくりに邁進し、社員からは「おやじさん」と親しまれた。一代で二輪から四輪、農業機械、船舶エンジン、二足歩行ロボットを製造するまでに業容を広げ、さらにはジェット機をまるごと開発するまでの会社にした。飛行機メーカーが自動車会社になる例はあるが、二輪メーカーがジェット機を開発し量産化した例はない。

07「思想さえしっかりしていれば技術開発そのものはそう難しいものではない。技術はあくまでも末端のことであり、思想こそが技術を生む母体だ」
本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)[本田技研工業創業者]
 そんな本田が最終的に社長引退を決断したのは、若手エンジニアからの反論だった。アメリカでマスキー法という環境規制をクリアするために世界初の低排出ガスエンジンを開発していた若手エンジニアに対し、本田が「アメリカのビッグ3に並ぶ千載一遇のチャンス」と発破をかけたところ、「自分たちは会社のためにやっているのではない。社会のためにやっているのだ」と反論されたのだ。これを聞いた本田は、「いつも社会のためにと言ってきたのに、いつの間にか私の発想は企業本位のものになってしまっている。自分の時代は終わった」と悟ったと言う。
 また本田は、ソニーの井深や盛田以上に、大言壮語した人だった。創業して6年目には、世界最高峰の二輪モーターレース「マン島TTレース」に出場し、優勝すると宣言した。当時、ホンダはドリーム号など爆発的人気を誇る二輪車を生産していたが、それはまだ箱根の山越えもできないほど非力だった。「あり得ない話」と誰もが思っていたが、ホンダのエンジニアたちは、「自分たちの生きる道はこれしかない」と奮い立ったと言う。

 そんな本田はリーダーシップについてこんな言葉を残している。

08「リーダーシップとは、目標をはっきり見せてやること」
 宣言から5年後にはマン島レースに参加。その2年後の61年に2階級を制覇。そして66年には5階級すべてで優勝。まさに有言実行。以後もF1への参戦や、ロボットや航空機の開発など、とてつもなく高いハードルを目に見える形で設定し、社員を奮い立たせてその夢を実現させてきたのだった。

 そして本田は、本物のリーダー像について次のように述べている。

09「人を動かすことができる人は、他人の気持ちになれる人である。その代わり、他人の気持ちになれる人は自分が悩む。自分が悩んだことがない人は、まず人を動かすことはできない」

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