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なぜイノベーションは会議室ではなく「雑談」から生まれるのか?現代 SNS の源流、「サロン」が拓いた知と経済のフロンティア

 なぜGoogleやAppleは、社員が偶然出会い「雑談」する空間の設計に巨額を投じるのか?なぜ多くのスタートアップは、コワーキングスペースから生まれるのか?
 その答えのヒントは、意外にも300年以上前のヨーロッパにあった!そこには「サロン」や「コーヒーハウス」と呼ばれる、多様な人々が身分を超えて知的な会話を交わす「場」があったのだ。現代のSNSやオンラインサロンの原型ともいえるこの空間は、啓蒙思想のゆりかごとなり、科学革命を加速させ、さらにはフランス革命やアメリカ独立の土壌を育んだ壮大な社会実験の舞台だった。
 単なる社交場ではなかった「サロン」や「コーヒーハウス」。そこに秘められた、知性を触発し、新たな価値を創造するメカニズムとは何か。今回は現代ビジネスパーソンが「場の力」を最大化するためのヒントを、都市と主宰者の横顔から探っていく。

■ネットインフラの拡張によって変わる「ビジネスOS」

 新型コロナウイルスのパンデミックによって世界の「ビジネスOS」は大きくアップデートされた。人類は互いに接触せずに遠隔地の人びととコミュニケーションが取れるようになった。たとえそれが地球の果てであっても電波が飛び回る地でインターネット画面を表示できれば、である。新たなビジネス空間が広がったのだ。その1つに「オンラインサロン」がある。インターネットのなかで、気の合う仲間が主宰者のトークを楽しんだり、意見を交換したりする空間だ。
 インターネット調査会社の「ICT総研」によれば、2021年に74万人だった年間利用者数は、2025年には145万人に膨れると予想している。
 皆さんは「サロン」という言葉にどんなイメージを持つだろうか。どこか優雅で洗練された、そして高貴でスノッブなエリートや知識人が集う怪しげな遊興空間。あるいは知識や情熱を持った思想家たちが未来を語り合う、秘密会合の場、といったところだろうか。
 共通しているのは、特定の人たちがそれぞれの思いを持って語り合っている場であったことだ。その場に出入りはできるが、その参加資格には暗黙のルールがあった。すなわち「あるテーマに対して議論ができる」ことだった。
 歴史上のサロン、あるいはコーヒーハウスでも酒が飲めないことはなかったが、議論を前提としていたことから、マナーとして飲酒が制限されるようになった。代わって登場したコーヒーや茶が「知性的な飲み物」として好まれるようになっていった。とくにコーヒーは当初「二日酔いに効く飲み物」として提供されたため、17世紀のロンドンでコーヒーハウスが爆発的に広がるきっかけの1つとなった。またサロンは男女が集う場であったことも、飲酒が制限され、マナーやモラルが求められた理由と言える。つまりサロンは必然的に「知的な議論」が広がりやすい環境として広がったのである。
 果たして現代のオンラインサロンはどうだろうか。そこではさまざまな議論がなされて、深い洞察や知恵が生まれていると想像できるが、ときにタコツボ化した空間のなかで、同じような話が繰り返されてはいないだろうか。だとしたら実にもったいないことだ。もちろん、一昔前に比べ、価値観が驚くほど多様化した現代においては、オープンな場で議論を進めることは難しくなっている。とくに匿名で参加できるネット空間では勢い、感情に任せた誹謗中傷に終始するケースも少なくない。
 オンラインサロンに限らずネットの言論が政治を左右する時代だからこそ、サロンが生まれた背景と意義を分析し、その発展と影響の歴史を学んでおく必要があるだろう。

■サロンの歴史と現代の「場」の力

 17世紀半ばのパリ。貴族社会の厳格な作法に息苦しさを感じていたランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌは、ある日思い立ち、自邸の寝室を改装した。その空間には身分や性別を問わず、文学や芸術、そして恋について自由に語り合える、気の置けない人々が招き入れられた。この私的な集いの空間は「青の間」と呼ばれ、やがてヨーロッパ全土に広がる「サロン」文化の源流となった。

ランブイエ侯爵夫人の肖像画

 実は彼女のつくったサロンは歴史のある「大きなうねり」と連動していた。「30年戦争」だ。
 カトリックとプロテスタントの対立から起こったこの戦争は、ヨーロッパ全土を巻き込み、1648年の「ウェストファリア条約」で終結したが、その結果は数百万の命を奪うという悲惨な結果をもたらした。この結末に宗教に世界秩序を求めてきた知識人たちは打ちひしがれ、こう問うた。
「なぜ愛を説く宗教が、これほどの憎しみと殺戮を生むのか─」。
 この切実で根源的な問いに、彼らは特定の宗教や権威に依存しない、理性と対話に基づく新たな道徳や倫理観を探求し始めたのだった。これが大きなうねり、すなわち「啓蒙運動」の始まりだったのである。青の間は打ちひしがれた知識人の渇望を満たす場となった。
 時を同じくして、もう一つの重要な「場」が変容を遂げていた。中世ヨーロッパで大聖堂建設を担った石工(メイソン)たちの組合である。彼らは町から町へと移動しながら教会などの重要な建築物の建設現場で働く自由な職人集団で、独自の規律と文化を持っていた。しかし、時代が下り建築様式が変化すると仕事が減り、組合は存続のために新たなメンバーを迎え入れた。その際に重視されたのが、石工としての技能ではなく、知的で教養があり、友愛精神に富む人物であることだった。こうして知的・友愛集団へと生まれ変わったのが「フリーメイソンリー」であった。彼らが集う場所は「ロッジ」と呼ばれ、啓蒙思想を育む重要な拠点となっていったのである。
 ヨーロッパではサロンやロッジのほか、この啓蒙思想の保育器となった場所があった。コーヒーハウスである。コーヒーハウスは、もともとトルコのイスタンブールで1554年に誕生し、その後イスラム圏に広まり、ヨーロッパでは1645年にイタリアのベネチアに最初のコーヒーハウスが生まれた。そして1652年に、イギリスのオックスフォード大学を擁するイギリス最古の学生街に誕生すると、学生が集っては議論を交わす場となった。その後コーヒーハウスは瞬く間にイギリス中に増殖した。イギリスのコーヒーハウスはフランス発祥のサロンと同様、まさに多士済々な人々を吸引し、独自の「コーヒーハウス文化」を作り上げていった。
 コーヒーハウス文化は、新しい時代の精神を体現する装置だった。一杯のコーヒーを媒介に、貴族と商人、学者と職人が同じテーブルで最新の情報や思想に触れる。そこは、思想、科学、そして産業革命の震源地となっていったのだ。
 もちろん、当時まだ自由主義や民主主義が根付いていなかった時代、そこで交わされる自由な言論は常に権力からの監視と隣り合わせだった。政府や教会は、自らの権威を揺るがしかねない新しい思想の広がりを警戒し、時に弾圧も行った。しかし、その緊張関係の中でこそ知は磨かれ、新たなネットワークが形成されていった。この「自由と統制のせめぎ合い」という構造は、現代のSNSやオンラインサロンが抱える課題とも類似している。歴史は、現代の私たちが直面する問題の原型をすでにはらんでいたのである。

■啓蒙思想の育成器、パリの「サロン」をつくった「サロニエール」たち

 18世紀、「世界の首都」と謳われたパリでは、サロン文化が爛熟の極みに達していた。パリだけで800以上のサロンがあったとされている。その中心にいたのは、上述したランブイエ公爵夫人のような、宮廷の公式な権力から離れた存在でありながら、知の世界で絶大な影響力を持つ「サロニエール」と呼ばれた女性主宰者たちだった。
 ランブイエ公爵夫人がサロンを始めた背景には長年続いた戦争があったが、彼女がもともと文学や絵画などの芸術文化で先行していたローマ生まれであり、当時のフランスの“粗野な” 貴族との関わりを避けたかったということもあったようだ。なにせ当時のフランス貴族たちは30年戦争で疲れ果て、教養どころか、文字を学ぶことさえ軽蔑する有り様だった。文化先進国のイタリアに生まれ、高い教養を持ち、社交を好み、美意識が高く繊細な体質だった彼女が、宮廷を避けて独自のサロンをつくったのも頷ける。パリにはほかにも傑出したサロニエールがいた。

■『百科全書』の最大のパトロンだったジョフラン夫人

 中でも注目すべきは、その才覚でヨーロッパ中の知識人から敬愛されたジョフラン夫人、マリー=テレーズ・ロデだ。彼女が主催したサロンは単なる社交場ではなく、さながら“知性生産工場”だった。週に2回、「芸術家の日」と「文人の日」を設け、テーマを絞って議論を活発化させるなど、その運営手腕は卓越していた。

ジョフラン夫人の肖像画

 彼女のサロンに集った人物は、たとえば法学者のシャルル・ド・モンテスキュー、哲学者で数学者、物理学者でもあったジャン・ル・ロン・ダランベール、哲学者・文学者のヴォルテール、画家のフランソワ・ブーシェ、ラ・トゥール、哲学者で社会思想家のジャン・ジャック・ルソーなど、日本の教科書にも登場する当時を代表する知識人や文化人ばかりだった。彼女のサロンはフランス国外でも知られ、のちにポーランド国王となった若き日のスタニスワフ・ポニャトフスキや、のちにスウェーデン国王となったグスタフ3世などが訪れ、若き日のモーツァルトもこのサロンで演奏したという。彼女のサロンの賑わいの様子は、当時の貴族・ブルジョワ階級を中心に流行した「ロココ調」の絵画のモチーフからもうかがえる。
 彼女の最大の功績は、フランスを代表する哲学者で作家のドゥニ・ディドロが中心となって編纂した『百科全書』の最大のパトロンであったことだ。百科全書は、「地上に分散している知識を集め、その知識体系を当代の人々に示し、またあとから来る人々に伝えること」を目的として、当時の哲学、政治、芸術、数学などあらゆる知識を網羅した知の宝庫、まさに戦争で打ちひしがれていたヨーロッパ知識人が求めていた啓蒙思想の集大成だった。だが当代先端の知識が詰まったこの壮大なプロジェクトは、時の体制批判も含めた思想が散りばめられ、教会や王権から危険思想と見なされて何度も弾圧された。フランスの王政は、サロンに密偵を潜入させ、議論の内容を逐一報告させている。だがこうした圧力にも屈せず、彼女は資金面だけでなく、執筆者たちが集い議論を交わす「編集会議」の場を提供することで支え続けた。
 彼女はその年収の大半を惜しみなくこのサロンに注ぎ込み、30年にわたってフランスの文学や芸術をリードした。

■旧体制の内部にいながら革命思想を育成したポンパドゥール夫人

 フランスの「サロン文化」を語るうえで欠かせないのが、国王ルイ15世の公妾(公式の愛人)として、事実上の宰相とも呼ばれるほどの権勢を誇ったポンパドゥール夫人である。平民出身でありながら、美貌と卓越した知性で王の寵愛を一身に受けた彼女は、その影響力を惜しみなく芸術と学問の保護に注いだ。彼女はヴォルテールやモンテスキューといった啓蒙思想家たちの庇護者となり、彼らが宮廷内で活動できる道を開いた。特に、教会勢力からの激しい攻撃にさらされていた『百科全書』プロジェクトを守り抜いたのは、彼女の政治的手腕によるところが大きいと言われている。彼女は、ルイ15世に働きかけ、出版禁止令を事実上骨抜きにしたのだ。驚くべきはポンパドゥール夫人のサロンがヴェルサイユ宮殿内にありながら、最もラディカルな思想が交わされる場であったことだ。ここで生まれた数々の思想は旧体制(アンシャン・レジーム)の内部から、その変革を促すという稀有な役割を果たしている。

ポンパドゥール夫人の肖像画

 フランスに起こった市民革命が、やがて燎原の火のごとくヨーロッパに広がり、さらにアメリカ合衆国の独立、そして現在の西欧社会、ひいては世界秩序をもたらしたことは周知の通りだが、もしフランスにポンパドゥール夫人が存在しなかったら世界の様相は大きく変わっていたに違いない。

■天才的な数学者・物理学者でもあったシャトレ公爵夫人

シャトレ公爵夫人の肖像画

 もう一人、忘れてはならない女性が、シャトレ公爵夫人、エミリー・デュ・シャトレである。彼女は思想家ヴォルテールの長年の恋人として知られているが、彼女自身も当時ヨーロッパで最も優れた知性の一人に数えられるべき天才的な数学者・物理学者でもあった。彼女はラテン語、イタリア語、英語を自在に操り、ニュートンの主著『プリンキピア』をラテン語からフランス語へ翻訳している。詳細な注釈を付けた功績は今日でも高く評価されている。彼女のサロンは、ヨーロッパ科学の最先端であり、デカルト的な大陸合理論とニュートン的なイギリス経験論がぶつかり合い、火花を散らすスリリングな実験室であったとされる。彼女自身が議論を主導し、その明晰な頭脳で、集まった学者たちを唸らせた。

■サロニエールの嫉妬が啓蒙思想を育てた?!

 フランスで花開いたサロン文化の最大の特徴は、こうした上流階級の貴婦人がサロニエールに多かったことだ。集まる人物が魅力的であればあるほど、そのサロンの影響力とプレステージは高まっていったが、当然そこには激しい競争や嫉妬がないまぜになっていった。
 ジョフラン夫人に激しい競争心を抱いたのが、デファン侯爵夫人のマリー・ド・ヴィシー=シャンロンだった。貴族の家に生まれ、パリの修道院で教育を受けた箱入り娘だったが、サロンを主宰すると、その知性とエスプリで知られるようになり、ジョフラン夫人のサロンと客を奪い合った。彼女は不幸にも失明し、50歳で引退する予定だったが、周囲に説得されサロンを継続した。失明後の彼女のサロンを支えたのが、ジュリー・ド・レスピナス嬢だった。しかし、レスピナス嬢も機知に富んだ才女であり、何よりデファン夫人より30歳以上も若かったため、客はレスピナス嬢目当てに来るようになっていた。やがて二人の間に亀裂が入り、デファン夫人はレスピナス嬢を解雇。レスピナス嬢は独立して自らのサロンを立ち上げた。そこにはデファン侯爵夫人のサロンに通った人たちの多くが集まった。レスピナス嬢には富も地位もなく、ひときわ目立つ美人でもなかったが、知性、魅力、ホステスとしての能力があり、その資質により彼女のサロンの集まりはパリで最も人気のあるものとなったのである。
 こうしたサロンで交わされる議論は、文学や科学に留まらなかった。次第に、絶対王政やカトリック教会の権威といった、既存の政治・社会制度そのものへの批判へと向かっていった。理性に基づけば、生まれや身分によって人の価値が決められる社会は不合理である。自由で平等な社会をいかにして実現するか──。サロンは、確実に来るべき革命の思想的なインキュベーターとなっていった。さらに言えば、こうした啓蒙思想を洗練させていったのは知識人たちを奪い合ったサロニエールたちの嫉妬心と競争心だったのかもしれない。

■金融産業を生み、産業革命を加速させたロンドンの「1ペニー大学」、「コーヒーハウス」

 フランスのサロンが隆盛を極める頃、ドーバー海峡を隔てたロンドンでは、コーヒーハウスが社会変革のエンジンを担っていた。そこはパリの貴族的・知的なサロンとは趣を異にする、より庶民的で実利的な「情報市場」だった。あらゆる階層の人々が情報交換のために集っていた。一杯1ペニーで知的な会話に参加し、最新の新聞やパンフレットを読むことができたことから、「ペニー・ユニバーシティ(1ペニー大学)」とも呼ばれ、市民の知識民主化に貢献した。当時のイギリスの識字率はまだ低く、文字が読めない者も多かったことから、このペニー・ユニバーシティでは文字を読める者が読めない者に対して新聞を読んで聞かせることも多かった。ロンドンのコーヒーハウスは誕生後爆発的に増え、1683年には3000軒に、1714年には8000軒もがひしめき合うようになった。
 ロンドンのコーヒーハウスの特徴はいくつか挙げられるが、まずはその専門性だ。共通の興味や職業を持つ人々が自然と特定の店に集まるようになったのだ。
 特筆すべきは大学の研究室にこもっている科学者が、特定のコーヒーハウスに集まっていたことだ。「王立協会(Royal Society)」の会員たちは、定例の学会だけでなく、コーヒーハウスに非公式に集まり、実験や観察の成果を持ち寄った。権威ある科学雑誌『Philosophical Transaction』に掲載される前に、まずコーヒーの湯気の立つ席で口頭発表することが習わしとなっていた。これらのコーヒーハウスで航海術の改良や蒸気機関の初期の構想、電気現象の実験などの内容が披瀝され、集まった知識人だけでなく、商人や職人たちがその議論に関わることで、技術が産業化へ近づいていったのだった。

1664年のコーヒーハウス

 実際、ロンドンのコーヒーハウスは、さまざまな産業を生み出した。とりわけ海洋覇権国家となっていたイギリスにおいては、金融の産業化を促した。
 金融の世界で決定的な役割を果たしたのが、タワー・ストリートにあったエドワード・ロイド(Edward Lloyd)のコーヒーハウスである。ロイド自身は特筆すべき金融の専門家ではなかったが、彼は極めて優れたビジネスマンであった。彼は、当時活発化していた海上貿易に関わる人々―船主、商人、船乗りたち―が何を求めているかを正確に理解していた。それは信頼できる「情報」であった。彼は自身のコーヒーハウスを、これから航海に出る船の積荷や航路、船長の実績、そして海賊や嵐といった航海の危険性(リスク)に関する最新情報が集まるハブにしたのだった。
 人々はロイドの店に集い、情報を交換するうちに、万が一船が沈んだ場合に備え、互いにお金を出し合って損失を補填する仕組みを自然発生的に考案した。これが近代的な保険業の始まりであり、今日、世界の保険・再保険市場の中心である「ロイズ保険組合」の起源となった。ロイドが提供したのは保険商品そのものではなく、情報が集まり、信頼が醸成され、新たなビジネスが生まれる「市場」そのものだった。
 チェンジ・アレーにあった「ジョナサンズ・コーヒーハウス」も新たな産業の源となった。ここには株の仲買人が集まり、やがて証券取引所という現代の資本主義経済に不可欠の装置を作り出した。ロンドンのコーヒーハウスは、情報の可視化が市場を生み出すことを証明したのだ。こうして金融資本が集積することで、イギリスの科学と産業はさらに促進された。
 ロンドンのコーヒーハウスがフランスのサロンと違っていたのは、主宰者が必ずしも個人ではなかったことである。商人や金融業者がパトロンとして機能していた。彼らの場合はコーヒーハウスを「情報収集装置」として活用し、その事業の確度を高めていた。また新聞発行人や作家、印刷業者、出版社などが主宰し、コーヒーハウスに定期的に新聞や出版物を提供し、客を呼び込んでいた。こうした主宰者にとっては、コーヒーハウスは販路であり、同時に取材現場でもあった。コーヒーハウスはイギリスのジャーナリズムを育成したのだった。
 文化や思想の昇華の場として機能したフランスのサロンに対して、事業化・産業化のためのプラットフォーム、産業革命のインキュベーターとして機能したのがロンドンのコーヒーハウスだったと言える。

■ロンドン市民を覚醒させ「素面の時代」を作ったコーヒーハウス

 ロンドンのコーヒーハウスが果たした役割は、ほかにもさまざまある。たとえばコーヒーハウスは当時のロンドン市民を“覚醒させた”ことだ。というのも当時のロンドンは産業革命により地方から仕事を求めた人々が集まり、各地に貧民街を形成していた。河川は汚染されて安全な水を確保できなかったため、人々は代わりに薄いビールやエールなどを日常的に飲んでいた。そのため一般市民は軽度の酔っ払い状態だった。それがコーヒーハウスの普及によって市民は初めて明晰な思考で経済活動に従事できるようなったとも言われている。「素面の時代」が始まったのだ。
 むろんいいことばかりではない。大量の情報が集まるコーヒーハウスは、犯罪の温床にもなった。金融情報が飛び交うコーヒーハウスには、詐欺師やいかさま師などが集まり、大小さまざまな犯罪を起こした。窃盗や強盗の情報が行き交うことはしょっちゅうで、前出のジョナサンズ・コーヒーハウスは、1720年に起こった南海泡沫事件の中心舞台となった。貿易が中心だった南海会社が金融事業にも手を広げたところ、国債の引受会社として成長し、わずか数ヶ月の間にその株価が10倍にもなった。このニュースがコーヒーハウスを通じて旧来の貴族や新興ブルジョワジー、一般庶民まで広まり、空前の投機ブームが巻き起こったのである。このブームに乗じて無許可で事業会社が立ち上がったが、その多くがいわゆる実態のないヤミ会社(泡沫会社)で、さらなる株価高騰の後押しをした。政府は加熱しすぎた投機ブームを抑制しようと、「泡沫会社規制法」を発令。株式市場は一気に冷え込み、あらゆる会社の株価が暴落した。南海会社の株価の暴落もかつてない速さで、多くの破産者と自殺者を産んだのであった。
 損を被った一人には当時王立造幣局長官を務めていたアイザック・ニュートンもいた。ニュートンは南海株の高騰で一時7000ポンドを儲けたが、その後暴落で20000ポンドの損害を被った。南海会社株の暴落で被害を被ったのはイギリス人ばかりではなく、フランスなどの投資家も多く、南海泡沫事件は国際問題となったのである。この暴落では、イギリスの政治家への賄賂として南海株式が使われたことが発覚し、政治家ヘの不信感が爆発した。これらの収拾に努めるなかで、チャールズ・スネルが調査し、議会に提出した報告書をもとに誕生したのが世界初の会計監査制度だと言われている。コーヒーハウスは近代の会計制度の礎も築いたのである。

■文化と監視が交差するウィーンのカフェに集った「内面の思索者」たち

 コーヒーハウス文化は大陸でも広がりを見せていた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで絶大な権力を握っていたハプスブルク帝国が落日を迎えつつあった。その一部であったオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでは、独特の退廃的で爛熟した文化が花開いた。その創造性の震源地となったのが、リング通りに面した壮麗なカフェの数々であった。「カフェ・ラントマン」などのカフェには、画家、音楽家、作家、建築家、そして精神科医といった、あらゆる分野の知識人や芸術家たちが集い、夜な夜な議論を戦わせていた。

現在のカフェ・ラントマン

 ウィーンのカフェ文化は、異なる分野の知性が予期せぬ形で交わる「知の交差点」であった。たとえば、若き日のジークムント・フロイトは、カフェでの友人たちとの対話を通じて、人間の無意識の世界を探求する精神分析学の着想を得たと言われている。また、ジャーナリストのカール・クラウスは、カフェを拠点に雑誌『ファッケル(炬火)』を発行し、社会の偽善や言語の腐敗を鋭く批判した。グスタフ・クリムトやエゴン・シーレといった画家たちは、カフェで新しい芸術運動について語り合い、のちにウィーン分離派を形成した。また新ウィーン楽派と呼ばれたマーラーやシェーンベルクといった作曲家たちは、伝統的な音楽の破壊をここで夢想した。
 しかし、他国同様この華やかな文化の裏には、常に帝国の厳しい監視の目があった。多民族国家であったオーストリア=ハンガリー帝国にとって、知識人たちが集い自由に意見を交わすカフェは、国家の統一を脅かす分離主義や反体制的な思想が生まれる危険な場所でもあった。秘密警察は常にカフェに目を光らせ、危険とみなした人物をリストアップしていた。この「創造と監視」という絶え間ない緊張関係こそが、世紀末ウィーンの文化に独特の深みと陰影を与えたと言える。直接的な政治批判が難しいからこそ、芸術家たちは人間の内面や性をテーマにしたり、象徴的な表現を用いたりするなど、表現方法を洗練させていったのである。

■マイノリティが輝く“承認の空間”ベルリンの「サロン」

 18世紀末から19世紀初頭にかけてのベルリンは、まだヨーロッパの文化的な中心地とは言えなかった。しかし、この地で生まれたサロンは、他の都市にはない、極めてユニークで重要な役割を果たした。それは、社会的な周縁に置かれた人々、とりわけユダヤ人や女性にとっての「承認の空間」となることであった。

ラヘル・ヴァルンハーゲン

 その象徴的な存在が、ユダヤ人女性であったラヘル・ヴァルンハーゲンである。当時のプロイセン社会は、家柄やキリスト教信仰を重んじる保守的な気風が強く、ユダヤ人であること、そして女性であることは、社会的な成功を阻む二重のハンディキャップを意味した。銀行家の娘として裕福ではあったものの、彼女自身は公的な教育を受ける機会も、社会的な地位を得る道も閉ざされていた。
 しかし、ヴァルンハーゲンは、その逆境を逆手にとった。彼女は自らの屋根裏部屋をサロンとして開放し、そこに集うための唯一の資格を「知性」と「才能」に定めたのだ。彼女のサロンでは、その人物が貴族か平民か、キリスト教徒かユダヤ教徒か、男性か女性かは一切問われなかった。評価されるのは、その人物が持つ知性や感性、会話の面白さだけだったのだ。彼女のサロンには、詩人のハインリヒ・ハイネ、哲学者のフリードリヒ・シュライエルマッハー、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、そして若き日の思想家カール・マルクスといった、多士済々が出入りした。彼らはサロンという場で初めて、出自や身分から解放され、一個の知性として尊重される経験をしたのだった。このベルリンのサロンからは、ゲーテやシラーに代表されるドイツ・ロマン主義という、ドイツ独自の思潮が生まれていった。

■噂が動かす世論を導いた庶民の学校イスタンブールの「カフヴェハーネ(コーヒーハウス)」

18世紀のカフヴェハーネ

 ヨーロッパでサロン文化が花開くよりも一世紀以上早い16世紀には、オスマン帝国の首都イスタンブールで、すでにコーヒーハウスが庶民の生活に深く根付いていた。イスタンブールのコーヒーハウスはカフヴェハーネと呼ばれた。ヨーロッパのサロンが主に知識人や貴族階級の社交場であったのに対し、カフヴェハーネは、より広く庶民に開かれた「もう一つの学校」であった。
 というのも当時のオスマン帝国では識字率が低く、多くの人々にとって情報は書物からではなく、人々が集まる場で語られる「言葉」を通じて得られるものだったからだ。それゆえカフヴェハーネは、「賢者の学校」とも呼ばれた。
 カフヴェハーネの特徴として挙げられるのは、「メドフン(メッダーフ)」と呼ばれる語り部や、「アシュク」と呼ばれる吟遊詩人が定期的に訪れ、英雄たちの物語やロマンスを語り聞かせるだけでなく、帝国の辺境で起きた反乱や、ヨーロッパ諸国との戦争の動向といった、国内外の最新ニュースを面白おかしく伝えていたことだ。さらに特徴的なことは、彼ら、つまりメドフンやアシュクは、カフヴェハーネのゲストとしてだけでなく主宰者の役割も担っていたことだ。メドフンやアシュクはいわば自分の芸を披露する「小屋」としても使っていた。しかし時が下っていくと、カフヴェハーネの主宰者は新聞発行人やジャーナリスト、作家に移っていき、そこで交わされる議論も政治や文学などに変わっていった。
 人々は一杯のコーヒーを片手に、情報に耳を傾け、互いに意見を交わし、世論を形成していった。しかし強力な中央集権体制を敷いていたオスマン帝国のスルタン(皇帝)にとって、決して看過できない事態であった。カフヴェハーネは、政府の公式発表とは異なる「噂」が広まり、時に反政府的な気運が高まる温床と見なされ、たびたび閉鎖令が出された。スルタン・ムラト4世はカフヴェハーネを「浮浪者が集まり、政治を討論し、扇動的な言論を広める場所」として何度も禁止令を発布した。しかし、一度庶民の生活に根付いた文化を根絶することはできなかった。弾圧されても、コーヒーハウスは形を変えて生き残り、庶民の情報交換と娯楽の場としての役割を果たし続けたのだ。

■ロシア文学の黄金時代を支え、革命の地下水脈として機能したロシアの文芸カフェ

 19世紀の帝政末期ロシア。モスクワやサンクトペテルブルクの街角には、ヨーロッパ文化への憧れを反映した文芸カフェが点在していた。そこは、ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフといった、ロシア文学の「黄金時代」を築いた文豪たちが集い、ウォッカを片手に文学論や社会批評を戦わせる、創造性豊かな空間であった。しかし、その華やかな文芸サロンの側面とは別に、これらのカフェはもう一つの貌を持っていた。それは、帝政の厳しい言論統制と、秘密警察オフラーナの監視の目をかいくぐり、革命を志す人々が集う「地下活動の拠点」という貌である。
 この流れにおいて、西ヨーロッパから持ち込まれたフリーメイソンリーが果たした役割は無視できない。18世紀、その存在は当初、西欧の啓蒙思想に憧れる為政者から歓迎された。その一人が、ドイツの小国の公女からロシアの女帝にまで上り詰めた皇帝エカチェリーナ2世である。彼女はヴォルテールらフランスの啓蒙思想家と文通を重ね、自らを「哲学君主」と称するなど、近代化に意欲的だった。その治世下でフリーメイソンリーはロシアに根付き、多くの貴族や軍人がメンバーとなった。
 しかし、彼女の態度は1789年のフランス革命を境に豹変する。自由・平等の理念が王政を打倒する力を持つことを目の当たりにし、彼女はフリーメイソンリーを危険な秘密結社と見なして厳しい弾圧に転じたのだ。この弾圧によってロシアのフリーメイソンは地下に潜ったが、彼らはフランスの「大東社」と秘密裏に連絡を取り続け、虎視眈々と革命の機会を窺っていた。そして1917年の二月革命後、臨時政府の閣僚の多くはフリーメイソンで占められたのだ。その後の十月革命を率いたレーニンやトロツキーもまた、フリーメイソンリーからの支援を受けていたことがわかっている。ロシア革命は、単にマルクス主義思想と民衆の怒りだけで成し遂げられたわけではなかったのだ。

■雑談の力が未来を変える、現代ビジネスへの5つの教訓

 パリの知性、ロンドンの実利、ウィーンの芸術、ベルリンの多様性、イスタンブールの庶民性、そしてロシアの革命的熱気。6つの都市のサロンやコーヒーハウスは、それぞれ異なる貌を持ちながらも、私たち現代のビジネスパーソンに共通の、そして極めて重要な教訓を投げかけている。それは、「イノベーションは会議室ではなく、雑談から生まれる」という真理である。
 こうしたサロンの歴史から、私たちは未来を拓くための5つの「場の設計」のヒントを得られるかもしれない。
①アイデアを社会実装する「場」と「支援者」を確保せよ(パリ)
 革新的なアイデアは、それ単体では力にならない。それを育む「場」と、物心両面で支える「支援者(パトロン)」の存在が不可欠である。現代のスタートアップにおけるエンジェル投資家やインキュベーターは、かつて『百科全書』を支えたマダム・ジョフランや、政治権力を行使して思想家を守った、ポンパドゥール夫人が果たした役割そのものである。
②情報を可視化し、リスクを共有すれば「市場」が生まれる(ロンドン)
 ロンドンのコーヒーハウスは、多様な情報がオープンに交錯し、可視化されることで、人々がリスクを共有し、証券取引や保険といった新たな市場を創造できることを示した。現代のデータドリブン経営や、クラウドファンディングによるリスク分散の仕組みも、この延長線上にある。組織内の情報をサイロ化せず、部門を超えてオープンに共有することが、新たなビジネスチャンスを生む土壌となる。
③創造性を刺激する「サードプレイス」を設計せよ(ウィーン)
 自宅(ファーストプレイス)でも職場(セカンドプレイス)でもない、リラックスできる「サードプレイス」は、新たな着想や人間関係を育む上で極めて重要である。企業が社員のために居心地の良いカフェスペースを設けたり、オフサイトミーティングを重視したりする戦略は、ウィーンのカフェ文化から学ぶべき知恵である。効率だけを追求したオフィス空間が、実は社員の創造性を奪っているのかもしれない。
④「多様性」こそがイノベーションの源泉であると知れ(ベルリン)
 ベルリンのサロンの歴史は、現代企業が取り組むべきダイバーシティ&インクルージョン(D&I)の重要性を19世紀の時点で示唆している。組織の革新性は、同質性の高い集団からではなく、異なる背景や価値観を持つ人々が心理的安全性を感じ、自由に発言できる環境から生まれる。あなたのチームは、自分と違う意見を歓迎し、それを組織の力に変えることができているだろうか。
⑤規制とリスクの中にこそ「破壊的革新」の種は眠る(ロシア)
 厳しい規制やリスクの高い環境は、一見するとビジネスの障害である。しかし歴史は、それを乗り越えようとする強いエネルギーからこそ、既存の秩序を覆すような破壊的なイノベーションが生まれることを教えている。大企業の社内政治や規制の壁がないスタートアップが、なぜスピーディーに事業を展開できるのか。それは、彼らが常にリスクと対峙しているからである。安定は、時に停滞の別名でもある。

 未来を拓くアイデアは、どこから生まれるのか。それは、管理された会議室のホワイトボードからではなく、コーヒーを片手にした何気ない雑談の中、異なる専門性を持つ人々が交わす予期せぬ対話の中にこそ隠されている。あなたの会社には、未来を変える「雑談」が生まれる「場」があるだろうか。

参考
【書籍】●『サロンの思想史』赤木冨美子/赤木昭三[名古屋大学出版会] ●『コーヒー・ハウス:18 世紀ロンドン、都市の生活史』小林章夫[講談社学術文庫] ●『公共性の構造転換』ユルゲン・ハーバーマス[岩波書店] ●『ヨーロッパのサロン文化史』ドリス・ベンデラー[白水社] ●『啓蒙時代のヨーロッパ』ジョン・R・イギルス[岩波書店]●『マダム・ド・スタール─ナポレオンに挑んだ知性』レベッカ・メスナー[ハーバード大学出版部]●『ウィーンのカフェ文化』カール・E・シェル[Reakition books]●『オスマン帝国とコーヒー文化の拡散』アラン・ミハロヴィッチ[I.B.Tauris] ●『ベルリンの知識人とユダヤ系サロン文化』マルティン・ジェイ[プリンストン大学出版部]●『テンプル騎士団とフリーメイソン アメリカ建国に到る西欧秘儀結社の知られざる系譜』マイケル・ペイジェント|リチャード・リー[三交社]ほか
【WEB】●コインクロス|掌の上の歴史学『一杯のコーヒーが帝国を動かす─オスマン帝国の珈琲店(カフヴェハーネ)と勃興する市民経済』ほか

POINT
■ オンラインサロン時代に学ぶべきパリのサロン、ロンドンのコーヒーハウス
■ さまざまなバックグラウンドを持つ人との交流が、新たな知性とイノベーションを生む
■ 集まった情報は可視化する
■ 企業内に積極的な「雑談の場」をつくる
■ サロンやカフェに意思を持った主宰者が必要
■ 会社でも家でもない「サードプレイス」をつくる
■ アイデアを実装できる場をつくる
■ 規制とリスクに立ち向かうことで「破壊的革新」が生まれる

ビジネスシンカーとは:日常生活の中で、ふと入ってきて耳や頭から離れなくなった言葉や現象、ずっと抱いてきた疑問などについて、50種以上のメディアに関わってきたライターが、多角的視点で解き明かすビジネスコラム

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