COLUMN ビジネスシンカー

2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

株の買い占めで企業を統合し、経営権を取っていった東急の五島

 その小林と並び称されたのが五島慶太だった。五島は長野出身。小さい頃からわんぱくで負けず嫌いだったようだった。小林や根津と同様に豪農の出で、実家はやはり農業だけでなく製糸業などを営んでいた。

 東京師範学校を出て一旦教員として務めるものの、一念発起して東京帝大に入り、卒業後は将来を見越して農商務省の鉄道院に入った。だが"単調な役人生活に飽きて"、退職。

 しばらくすると東京進出を伺う小林から荏原鉄道の協力を依頼される。五島は取締役として引き受ける。ここから五島は自分の鉄道王国計画を加速させた。

 五島は官僚時代に身につけた予算管理法で、合理的な経営術を展開するとともに、小林が生み出した鉄道事業と沿線開発による資産形成と、そこから生み出すキャッシュでさらに鉄道事業を広げる手法を、より果敢に展開していった。

 また官僚を辞した頃"国造りの神様"渋沢栄一と知り合ったことも大きかった。渋沢は英国の田園都市構想に憧れ、世田谷南部の洗足や玉川一帯で実現しようと考えていた。都心とこの田園都市をつなぐには鉄道が必要であり、その主導者となったのが小林だった。しかし小林が関西で手一杯だったため、一帯の鉄道事業を五島が動かすようになっていった。

 五島は小林同様に住宅や学校、デパートをつくるだけでなく、事業性があるとみたものは株を買い占めるなどして合併し、経営権を握っていく。

 やがて五島は三井グループのメインビジネスである三越の株を買い占めて東急百貨店と合併させ、経営権を握ろうとした。結局支援銀行からの融資が止まり失敗するが、ほかにも株を買い占めて合併・統合させる手法で鉄道事業、その周辺事業の実権を握っていった。

 当時こうしたやり方は珍しくなく、根津や小林もそういうやり方を取っていたが、その目立って強引なやり方に、いつしか世間は五島を「盗人五島」と呼ぶようになったのだった。