COLUMN ビジネスシンカー

2019.03

経営者必読! どん底から再生する経営 生死の淵で守るべきもの。捨てるべきもの

ガリバーインターナショナルは、倒産があったからこそ上場できた

 法律の改正や支援制度などの充実によって変わってきているものの、日本では一旦会社を潰してしまうと、その再起はまだまだ難しいものがある。しかし経営が破綻し、そこから復活して再生させる素晴らしい経営者もいる。

 中古車の買い取り専門業という新しいビジネスモデルを起こして、創業9 年で東証一部上場を果たした「ガリバーインターナショナル」の羽鳥兼市さん。いまや押しも押されもせぬビジネスの成功者だが、35歳の時に、前の会社を倒産させている。

 羽鳥さんは幼い頃からビジネスの才覚があり、小学生3年生の頃には、納豆を青果市場で仕入れて近隣や街中で売っていたという。

 それらの資金を元に高校時代には、ボートを購入。地元福島県須賀川市の猪苗代湖で貸しボート屋にボートを貸し、「8人揃って1回5000円」のところを「1人で500円」の価格で売り出し、大繁盛させている。利益の半分をもらい、高校3年生までの3艇を購入して、業容を拡大している。

 高校卒業後は大学に進学する予定だったが、父親の猛反対に遭い断念したという。すでに大学に合格し、下宿先を決めて寝具を送った後に、父親は泣きながら「小学校の頃から事業を教えてきた。事業をやる人間には学歴は要らない。大学を卒業した優秀な人に協力してもらえばいいんだ」と言ってきた。羽鳥さんは5人兄弟の末っ子でたった1人の男。父親にとっては可愛い1人息子が東京に行ってしまったら、戻ってこないかもしれないと考えたからだった。

 羽鳥さんはその要望を受け入れる。その代わりに中古のアメリカ車シボレーエンペラーを買ってもらったという。当時で170万円をしたというから、今の価格では軽く1000万円以上の値打ちにはなる。

 羽鳥さんは、その後東京の自動車修理工場で修行する。その際そのシボレーを自分で乗り回さずに、人に1日7000円で貸し出していた。当時の月給が7000円という時代。かなりの高額だ。それでも同僚たちはこれを乗り回したくて借りていったという。

 そして26歳の時に義兄と一緒に板金塗装を主体とした羽鳥総業を創立。しかし下請け構造のなかではなかなか儲けることができないと、元請け事業を考える。

 毎朝5時に起きて、クレーン車で国道のパトロールを始めたのだ。国道沿いでは毎日なんらかの事故が起きていて、車がガードレールにぶつかっていたり、田んぼに落ちていたり...。これをクレーンで引き上げるのだ。事故にあった人を探して病院を訪ね、ベッドに寝ている車のオーナーに「あのままじゃ、タイヤを盗まれますよ。引き上げたほうがいいですよ」と説得して回ったという。また警察前の駐車場で弁当を取るようにして、出動するパトカーの後をついていったそうだ。すると何かしらの事故の遭遇し、その事故処理の仕事も取るようになったという。

 小さい頃から鍛えた事業のセンスと、仕事を取る嗅覚で羽鳥総業は50 人ほどの従業員を雇う中堅企業になっていった。

 しかし手形詐欺に遭い創業10年目で倒産する。羽鳥さんが35歳の時だった。頼りにしていた義兄は、奥さんと子供2人を残して海外逃亡。羽鳥さんは3億円の借金を背負い、姉とその子供2人を含む一族10人を食べさせていかなければならなくなった。残ったのは3億円の担保となった家と店舗だった。

 羽鳥さんは、まず融資を受けていた取引先の金融機関6行に、「借金は5年で返す」と交渉して、納得してもらう。ここで交渉が成立したのは、羽鳥さんのこれまでの事業家としての才覚を金融機関側が認めていたこともあるだろう。何より羽鳥さんの可能性を買っていたのだと思われる。それは家と店を担保としたままとなったこともその期待感を表している。通常は競売にかけられてもおかしくないわけだから。

 しかしこの時点でそんな大金を返す当てはない。当時の3億円はいまの3億円とは違いその10倍以上の価値はあったはずだ。

 当面の生活費は、羽鳥さんの母親が生命保険を解約して捻出した。そして羽鳥さんは倒産から2ヶ月後に「東京マイカー販売」として、中古車自動車販売業を始めた。車名を東京マイカー販売としたのは、羽鳥の名前では信用がないことと、債権者が羽鳥さんのもとを来続けたためだ。