CONTENTS 記事・コラム 詳細
  • ビジネスシンカー

経営者必読!どん底から再生する経営-生死の淵で守るべきもの。捨てるべきもの

ガリバーインターナショナルは、倒産があったからこそ上場できた

 法律の改正や支援制度などの充実によって変わってきているものの、日本では一旦会社を潰してしまうと、その再起はまだまだ難しいものがある。しかし経営が破綻し、そこから復活して再生させる素晴らしい経営者もいる。

 中古車の買い取り専門業という新しいビジネスモデルを起こして、創業9 年で東証一部上場を果たした「ガリバーインターナショナル」の羽鳥兼市さん。いまや押しも押されもせぬビジネスの成功者だが、35歳の時に、前の会社を倒産させている。

 羽鳥さんは幼い頃からビジネスの才覚があり、小学生3年生の頃には、納豆を青果市場で仕入れて近隣や街中で売っていたという。

 それらの資金を元に高校時代には、ボートを購入。地元福島県須賀川市の猪苗代湖で貸しボート屋にボートを貸し、「8人揃って1回5000円」のところを「1人で500円」の価格で売り出し、大繁盛させている。利益の半分をもらい、高校3年生までの3艇を購入して、業容を拡大している。

 高校卒業後は大学に進学する予定だったが、父親の猛反対に遭い断念したという。すでに大学に合格し、下宿先を決めて寝具を送った後に、父親は泣きながら「小学校の頃から事業を教えてきた。事業をやる人間には学歴は要らない。大学を卒業した優秀な人に協力してもらえばいいんだ」と言ってきた。羽鳥さんは5人兄弟の末っ子でたった1人の男。父親にとっては可愛い1人息子が東京に行ってしまったら、戻ってこないかもしれないと考えたからだった。

 羽鳥さんはその要望を受け入れる。その代わりに中古のアメリカ車シボレーエンペラーを買ってもらったという。当時で170万円をしたというから、今の価格では軽く1000万円以上の値打ちにはなる。

 羽鳥さんは、その後東京の自動車修理工場で修行する。その際そのシボレーを自分で乗り回さずに、人に1日7000円で貸し出していた。当時の月給が7000円という時代。かなりの高額だ。それでも同僚たちはこれを乗り回したくて借りていったという。

 そして26歳の時に義兄と一緒に板金塗装を主体とした羽鳥総業を創立。しかし下請け構造のなかではなかなか儲けることができないと、元請け事業を考える。

 毎朝5時に起きて、クレーン車で国道のパトロールを始めたのだ。国道沿いでは毎日なんらかの事故が起きていて、車がガードレールにぶつかっていたり、田んぼに落ちていたり…。これをクレーンで引き上げるのだ。事故にあった人を探して病院を訪ね、ベッドに寝ている車のオーナーに「あのままじゃ、タイヤを盗まれますよ。引き上げたほうがいいですよ」と説得して回ったという。また警察前の駐車場で弁当を取るようにして、出動するパトカーの後をついていったそうだ。すると何かしらの事故の遭遇し、その事故処理の仕事も取るようになったという。

 小さい頃から鍛えた事業のセンスと、仕事を取る嗅覚で羽鳥総業は50 人ほどの従業員を雇う中堅企業になっていった。

 しかし手形詐欺に遭い創業10年目で倒産する。羽鳥さんが35歳の時だった。頼りにしていた義兄は、奥さんと子供2人を残して海外逃亡。羽鳥さんは3億円の借金を背負い、姉とその子供2人を含む一族10人を食べさせていかなければならなくなった。残ったのは3億円の担保となった家と店舗だった。

 羽鳥さんは、まず融資を受けていた取引先の金融機関6行に、「借金は5年で返す」と交渉して、納得してもらう。ここで交渉が成立したのは、羽鳥さんのこれまでの事業家としての才覚を金融機関側が認めていたこともあるだろう。何より羽鳥さんの可能性を買っていたのだと思われる。それは家と店を担保としたままとなったこともその期待感を表している。通常は競売にかけられてもおかしくないわけだから。

 しかしこの時点でそんな大金を返す当てはない。当時の3億円はいまの3億円とは違いその10倍以上の価値はあったはずだ。

 当面の生活費は、羽鳥さんの母親が生命保険を解約して捻出した。そして羽鳥さんは倒産から2ヶ月後に「東京マイカー販売」として、中古車自動車販売業を始めた。車名を東京マイカー販売としたのは、羽鳥の名前では信用がないことと、債権者が羽鳥さんのもとを来続けたためだ。

 時間のかかる納車をお客さんにお願いした

 しかし、看板を掲げたものの肝心の車を仕入れる元手はない。羽鳥さんはなんとか2万円を工面し、エンジンがかからないような車を2台仕入れる。もちろんエンジンがかからない車を買うような人はいない。

 そこで羽鳥さんは、仕入れた2台を新車同然まで仕上げ、同級生や昔からの取引先に頼み込んで買ってもらう。そしてその売上で次の車を購入し、仕上げ、売っていった。こうして東京マイカー販売を立ち上げた1ヵ月で50台を売ったのだった。もちろんただ売るわけではない。

 仕入れて、仕上げて販売し、そしてクレームにも対応しなければならない。これを1人でこなして、50台を売るのはまず不可能だ。

 羽鳥さんは案を捻った。時間のかかる納車を効率化するために、ガソリンを満タンで渡すようにしたのだ。「特別にガソリンを満タンにするので取りに来てください」と。

 するとたいていのお客さんは取りに来てくれたと言う。しかも大抵友達の車に乗って2人で取りに来た。そこで羽鳥さんはさらに彼らに「1台1万円払うので、2人で別の車も納車してくれないか」と頼んだという。するとたいがいこれも快諾してくれて、その後は準社員のように動いてくれるようになるのだった

 これで年間なんと600台を売っていた。また納車の時に両親に板金塗装をしてもらっていたので、まさに新品同様の外観となり、1台あたり当時20〜30万円の利益が出ていた。

 こうして月に1000万円の粗利を上げて、5年で返すと言っていた3億円を3年で返してしまう。

 

 羽鳥一家は夜逃げしたんだろう! 
 その言葉で俄然やる気が湧いた

 その後この「東京マイカー販売」で得た資金をもとに現在のガリバーインターナショナルが誕生したのだ。絵に描いたような逆転劇だが、羽鳥さんは、あの倒産があったからこそ今のガリバーがあると回顧している。

 羽鳥総業が倒産した後、羽鳥さんのもとに強面の若い男がやってきて、こう言い放つ。「ここは羽鳥がやっていた店だろう。羽鳥一家は夜逃げしたんだってな」

 羽鳥さんの住んでいた福島県須賀川市は当時人口6万人程度の地方都市。誰の家が倒産したといった話はあっという間に筒抜けだ。そのため、羽鳥さんはほとんど外に出ず、ひっそり日々を過ごしていたのだ。

 でもこの言葉を聞いて羽鳥さんは奮い立った。

 「全身に鳥肌が立って、なにおぉーっと奮い立ちました。俺は夜逃げしたと思われているのかと。その男の一言で気がつきました。いま以上に恥ずかしいことなんてないんだから、安っぽいプライドは捨てて命を賭けて仕事をしようと、一瞬にして決意しました。いまにして思うと、復活できたのは、そのお兄さんが店に来てくれたお陰ですね。神様がお兄さんを店に連れてきたのかもしれません。あの言葉を聞かなかったら本当に夜逃げをしていたかもしれませんよ」

 もう一つ、羽鳥さんの復活劇を支えたのは自身のビジネス感覚だ。

 羽鳥さんは倒産後、借金を返済していく時に返済をゲームと考えた。「自宅だって3億円の担保価値はありませんでした。それならこの家を売ってしまえば担保がなくなるんだから、それ以上返す必要がなくなるのになというようなことも考えました。するといらだつから返せるものではない。笑顔で返すにはどうしたらいいかを考えたら、返済もゲームしてしまうといいとひらめいた。先月は500万円返した。今月は800万円返したと、ゲーム感覚で返していくと、借金が減っていった」

 羽鳥さんは、借金返済をゲームとして楽しんでいたのだ。

全国600店舗のラーメンチェーン店が倒産した理由とは

 全国で600余店を展開した「くるまやラーメン」。東京足立区で大型トラックの運転をしていた草野光男さんが、屋台の立ち食い蕎麦をはじめたのがきっかけだった。当時はモーターリゼーションのうねりが日本じゅうを席巻し始めた頃。草野さんの蕎麦屋はたちまち繁盛し、これに自信を深めた草野さんは、店を知人に譲り、中華料理の修行に入る。センスのいい草野さんは半月でメニューをマスター。日光街道沿いに車のバンを改造しラーメン店を開く。さらに繁盛するとバスを改造して、店をつくった。これがのちのくるまやラーメンのルーツだ。車から起こしたということで命名した。

 1972年にフランチャイズ1号店を開くと、わずか数年で100店舗まで増える。その後も順調に店舗数を増やし最盛期には直営店273店、フランチャイズ店390店まで拡大する。

 しかし1997年、メインバンクである当時の長銀から、なぜか設備機材の償却期間をそれまでの5年から1年に変更することを求められたのだ。厨房機器などの機材の償却期間が一気に5分の1になるわけなので、債務超過に陥ることになる。これを理由にくるまやラーメンの運営会社「栄商事」の社長就任を要求されたのが光夫さんの長男、草野直樹さんだった。

 直樹さんは、高校時代からくるまやラーメンの取締役で、大学卒業後は修行のために居酒屋やレストランを展開している飲食会社に就職した。しかし25歳の時にその会社がラーメン事業を始めたため、退社してくるまやラーメンに就職。メインバンクから社長要請を受けることになったのは翌年のことだった。そして就任2ヶ月後で会社更生法の申請を余儀なくされたのだった。

 長銀はその後破綻したが、直樹さんは会社に乗り込んできた時からおかしかったと振り返る。社長就任の際に長銀の担当者は「決算書作成に必要だから」と会社の実印や株券を持っていこうとしたという。直樹さんが「それは銀行法に触れるのでは?」と問うと「訴えてください」と開き直って持っていったという。

 会社更生法を申請する前には、長銀の担当者から「申請したら社長でいられなくなるので、食材加工の子会社に転籍して、ぜひノウハウを提供してください。そうなれば、生活はこれまでと変化はないでしょう」と言われ、白紙委任状にサインをさせられた。

 

 得意の味噌ラーメンで再生すると「特別背任罪で検挙します」

 結果、直樹さんは失業者となった。しかも4つの銀行から50億円の個人保証を求められていたので、その負債を背負う形になったのだ。「いまだったら長銀に言われるままに動かないでしょう。その年、サブバンクだった複数行から12億円を融資してもらうことになっていました。長銀の話を聞かずに、これらの銀行と話をつけると思います」

 倒産後、直樹さんはどうしたのか。

 「更生会社には出入り禁止にされたし、裁判所から携帯電話をもたされて、自宅待機を命ぜられました。晩飯に何を食おうかと考えることくらいしか、やることがなくなりましたね。いざ仕事がなくなると、本当に辛いものなんですね。とにかく働かなくてはと思いました。でも働くといっても自分にはラーメンぐらいしか思いつかない。やっぱりラーメンをやろうと考えるようになりました」

 そこで元の製麺会社、タレのメーカーなどラーメン店を出すのに必要な取引先を探し、実家の台所で試作品をつくり、友人を呼び出しては、試食を重ねていく。ところが、そのうちに取引先と打ち合わせをしているという話が、更生を担当してる管財人の耳に入る。直樹さんは東京地裁から呼び出しを受ける。

 そこで裁判官から言われたことは、「栄商事は、味噌ラーメンをやってきた会社、これからもそのノウハウで更生していく会社です。あなたが味噌ラーメンの店を始めたら詐害行為になるので、特別背任罪で検挙します」と。

 そこで考えたのが「豚骨」。「味噌ラーメンがまずいなら、豚骨ならいいのではないか」と。

 第三者破産で負債を免責

 直樹さんは自己破産をしていなかった。会社更生法を申請する時に弁護士から、自己破産には裁判所に納める予納金を含めて、400〜500万円かかると言われたのと、個人保証をしている会社の負債状態が複雑すぎて、全貌を把握した書類を作れなかったからだ。

 倒産から3ヶ月。直樹さんは知人に代表者になってもらい、有限会社を起こす。直樹さんの父親は、相当な人脈を築いており、芸能関係者やその知人が支援してくれた。芸能の世界にも「騙す」「騙された」の話は転がっており、しっかりした人脈を築くことはその世界で生き延びるための手段でもある。また浮き沈みの激しい世界であるため、飲食店などを経営する芸能関係者も多く、飲食チェーンをやっていた直樹さんの父親にはたくさんの接点があったのだ。こうした支援があって、池袋で「ばんからラーメン」を旗揚げする。

 父親の築いた人脈はまさに財産だった。

 取引先も売上が上がってから支払うという支払い条件にするなど、直樹さんに有利な支払い条件にしてくれた。

 「支援していただいた方のためにも、頑張らないといけないと思いました。自分ひとりでは何もできない」ということを身をもって感じた直樹さんは、立ち上げ後すぐ、自分の分身をつくることを考える。バイトの人間にノウハウを教えて独り立ちできるようにしていったのだ。いわゆるフランチャイズだが、「暖簾分けのような感じだった」と言う。店舗を増やすのは、少しでも売上を伸ばして支援したくれた人に対して恩返しをするためであり、愛着が持てて、自分のラーメン店はうまいんだという自信を持ってもらうことが大事だと直樹さん。

 店が増えるたびにその店名も変えていった。これはまだ更生期間中であり、またフランチャイズだと思われると世間の注目を集め、管財人から資産を狙われないようにとの配慮からだった

 2002年、栄商事の更生期間が終わり、栄商事は更生会社から普通の会社となった。同時に管財人が直樹さんに第三者破産を申告する。第三者破産は、債権者が破産を申し立てる破産で、この破産宣告で、2003年3月には免責を受けることができたのだ。破産するための費用は1円もかかることがなかった。

 そしてこれを機に、さきほど一店一店別名にしていたラーメン店をすべて「東京豚骨ラーメンばんから」に統一する。

 直樹さんは、債権者からの取り立てに怯えることなく、事業に専念できるようになったわけだが、くるまやラーメンのように店舗数を誇るようなことはしないという。たとえ出店すれば成功すると分かっている土地があっても、借金してまで出店しないというのが、東京豚骨ラーメンばんからの方針。「大きいことが大切なのではなく、強いことが大切だと思うようになった。時代や環境にも負けず、大きな組織にも対抗できる」

 倒産したからこその経営哲学だ。

元IBMマンの自殺を思いとどまらせた500円

 元日本IBMの社員で現在「ストロベリーコーンズ」というピザチェーンを全国展開する宮下雅光さんも事業に失敗し、自殺まで考え、復活した人だ。

 宮下さんは地元仙台で創業したコーヒー店の客足が落ち、それをカバーしようと居酒屋など他業態にも手を広げた。しかし赤字だけが増え、気が付くと1億6000万円の債務超過に。個人の預貯金、子供の学資保険を解約してもとても足りなかった。

 実質的な破産状態だった。ただ当時は「破産したらもう人ではないという扱いをされる時代でしたから、とても破産できない。親類縁者からもお金を借りたり、保証人になってもらってしていた」ためにどうにもならない状態だった。1984年、宮下さんは車に乗って仙台港に向かう。自分にかけていた生命保険2億円をその足しにしようと、車ごと海に沈もうと思っていたのだ。

 しかし、神様は「まだ思いとどまれ」と言っていた。

 仙台港に車で向かう途中、ふと財布の中を見ると500円が入っていた。「これから死のうと思ってる人間が金を持っていてもしょうがない」と、宮下さんはパチンコ店に入ると思いがけず、チューリップがどんどん開く。気が付くと大箱2つ。5万円に換金できたのだ。

 運命が好転、しかしまた事業を失敗

 「5万円あれば、女房と子供を1週間は暮らせる。食費だけなら1ヵ月は食えるかもしれない金額だ。500円が5万円になったのだから、天が俺にまだ生きろと命じているのかもしれない」

 こう考えた宮下さん。俄然やる気が湧いてきた。そして実際天は宮下さんに味方した。うまくいかず店を閉めていた本社向かいのビルのフロアのテナントが決まったのだ。このビルは次のテナントが決まらない限り保証金が戻って来なかった。保証金は3000万円。半年も決まらなかった物件が、自殺を考えた日から1週間後に決まったのだ。

 宮下さんはこの3000万円で延命することができた。だがこの3000万円でまたも宮下さんは失敗してしまう。この3000万円でケータリングビジネスを始めたのだ。

 オードブルセットにすし、弁当、ピザ、惣菜などどんどんメニューを広げて失敗。1986年、今度こそあとがなくなった宮下さんは、当時東京で流行していたアイスクリームショップに目を付ける。

 東京で人気のアイスクリームショップを丁寧にマーケットリサーチ

 宮下さんは副社長の宮下さんの奥さんと専務の女性を東京に派遣してマーケットリサーチをする。この時、都内に所有していたマンションを売りに出し、850万円が手に入る。そこから借金を返済すると300万円が残った。この資金をもとにアイスクリームショップを開いたのだ。

 すると丁寧なリサーチが功を奏して、これが大ヒット。しかし仙台の冬は寒く、冬になるとアイスクリームは売れない。そこで同じ店で冬場にピザの宅配を始めり。それが現在のストロベリーコーンズの原点となる。

 宮下さんは、その後副社長と専務を再び東京に派遣してマーケットリサーチを行う。さらに経営コンサルタントに教えを請い、チェーンビジネスや立地の見極めなどを学ぶ。

 「それまでの飲食店やケータリング事業は、自己中でやっていただけなんですね。自分が儲けようとだけ考えていた。ストロベリーコーンズでは、IBMで培った力をお客様やフランチャイジーのために活かせるようになりました。それではじめて成功することができた」と宮下さん。

 自己中ではなく、中庸の精神で経営にあたる

 宮下さんがその経営哲学の中心に置くのは、中庸だ。

 「中庸のバランスが大事だと思います。たとえば、私はコンピュータ屋だからといって、理数系の頭でばかり考えているわけではない。歴史や戦争の本もずいぶん読んでいます。5人の取締役のうち2人が女性なのもバランスを重視するからです。おかげで私がアイデアを出しても、利益に繋がりそうもないと感じると、彼女たちはフンと私の意見を無視してしまいますけどね」

 何度も事業に失敗し、赤字を重ねた宮下さんだが、どこかに自分の考えが絶対という過信が宿っていたのかもしれない。IBMという世界的企業に勤めていた自負がそうさせたのかもしれない。しかしそれまではマーケットリサーチなど経営者として当たり前のことをせずに一人相撲をとっていたような経営だった。中庸、そしてバランス、配慮といった言葉に出会い、ようやく事業の中核を掴んだのだった。

給料遅配が続く広告制作会社に合併話が来た

 創業約10 年。沖中勇作さんの会社「オキ・エンタープライズ」は東京都内で広告代理業とイベント制作を行う社員14人の小企業。しかし年商5億円あった売上がその半分以下に落ち込んでいた。

 取引先は地場の優良食品関連メーカーで、売上の7割をその会社が占めていたが、折しも起こったO157問題で、その取引先の売上が激減。広告・販促ツールの発注がほとんどなくなってしまう。

 社員への給料も支払えず、3ヵ月の遅配が続いていた。1人、2人と辞め、7人が残っていたが、その残った社員の給料を出すこともままならない状況はまだ続いた。沖中さんは新しいクライアントの開拓や新規事業のアイデアを模索するなかで、ある男性と出会う。その男性は沖中さんに合併話を持ちかけた。

 その男性は、健康食品の通販事業を行いたいということで、そのために広告に明るい沖中さんの会社と組みたいという話だった。沖中さんは、通販という新規分野と、健康食品という、表立って効能やスペックを訴求しにくい商材に不安を感じたが、背に腹は代えられないとこの合併話に乗った。

 社員にも早速この話をしましたが、沖中さんが不安を感じたように社員の間にもその合併を訝る様子が見て取れた。

 突然の合併話の白紙撤回

 通販サイトの立ち上げが翌年1月に迫ったクリスマス前の夜、その男性から話があると呼び出される。出てきた言葉は「合併の白紙撤回」だった。男性の会社の社員が合併話を強硬に反対したためだというのだ。

 結局合併はなくなり、そこまで準備してきたチラシやパンフレット、さらに倉庫に仕入れたあった商品そのものもその男性の会社が引き上げていった。

 男性の言い分をどこまで信用すべきなのか。沖中さんならずとも悩むところだが、起こってしまったことを受け入れるしかなかった。

 「このまま続けることは難しい」。

 沖中さんは、会社をたたむことを決心する。

 クリスマスの夜、沖中さんは社員を居酒屋に呼び出し、まずこれまでの労をねぎらい、そして正直に現状の厳しさを訴え、会社をたたむことを話した。

 会社をたたむ決心を変えた女性社員の一言

 「会社がなくなったとしても、僕らの関係はなくなるわけではないから」

 どこか言い逃れにも取れる言葉を明るく語る沖中さん。しかし場はどん底だった。

 しかしその時、ある若い社員が明るくこう語った。

 「え〜、会社やめちゃうんですか?私、アルバイトしてお金を入れますから、もう少し会社やりましょうよ。だめかなぁ」

 この言葉は、ほかの社員の気持ちも代弁していた。その言葉先にある沖中さんの言葉をみな、待っていた。

 ただすぐには答えることはできなかった。

 しかし結果として沖中さんは会社を続けた。再生の鍵は「いやな予感」のした通販事業だった。負債を早く解消するため、沖中さんたちが取った戦略が「代引き」だ。クレジット決済が主流の通販で代引き中心のモデルは、タブーとまで言われていたが、宅配業者を通じて確実に現金が回収されるシステムは、沖中さんの会社を見事に復活させた。売上は12億円を超え、7人のスタッフは契約を含めると50人にまで増えた。

 沖中さんはまさに人材に救われたのだ。それは新人だった彼ら彼女たちを時に厳しく時に慈愛をもってしっかり育ててきたからだ。社員との距離が近い中小企業だからこそできた復活劇なのかもしれない。

 いかがだろうか。会社の倒産は遠いようで身近な世界だ。その時問われるのは、最終的には人間性なのかもしれない。

 復活劇というと、どこか不撓不屈の精神力がものを言いそうだが、ここに登場する人たちは、淡々と受け入れ(たように感じる)、そして周りの人の話を聞いて、しっかり軌道修正をし、そこから背骨となる経営哲学を掴んだ人たち。そんな気がする。

 その時の気持ちに寄り添うだけで、私たちも見えてくるものがあるはずだ。


POINT

■ 人を雇う余裕がない時は、お客さんを利用する
■ 借金返済をゲーム感覚として楽しめ
■ 辛いことばかりみてはいけない。楽しんでできることを考える
■ わかっていることだと思ってもしっかりマーケットリサーチをする
■ 経営を客観化するために、経営コンサルタントなど第三者の客観的意見を聞く
■プライドは捨てる。捨てたつもりでもまだこだわっている場合がある
■融資や資金調達は、メインバンクだけでなくさまざまなところから話を聞いてみる
■社員と社員の生活をイメージする。
■社員の力を信じる
■倒産から見返してやろうというようなことは思わないこと
■自分にできることを考える
■驕らない。中庸の精神を持つ
■事業は一人ではできないという認識を再確認する
■普段の人脈づくりが、倒産後の再生の鍵をにぎる

<参考>
『逆転劇』 市川徹[ アートン]
『倒産社長 復活列伝』 三浦紀夫[ 草思社]
『100 回失敗、50億失った、バカ社長』杉山春樹[ WAVE 出版]
ほか


 

【newcomer&考察】 
 ポテトチップスは箸で食べる!? 飲む??

 ポテチショック—大新聞がまるでスクープのようにこの見出しを付けたのが、2017年のことだった。ポテチショックとは、ポテトチップスの原料であるじゃがいもの主力生産地である北海道に前年秋、大型台風が襲来し、収穫前のじゃがいも畑を直撃。じゃがいもの収穫量が落ち込んだことで、ポテトチップスメーカーが主力商品を相次いで生産中止などに至ったことだ。

 この報道が出てからは、危機感を持った消費者が買いだめに走り、スーパーやコンビニの棚からポテトチップスが消えていった一方、人気ポテトチップス銘柄は投機商品化した。ネットオークションサイトでは一袋100円のポテトチップスが通常の数倍の高値で取引される状況になり、なかにはカルビーの「ピザポテト」などは、なんと1万円の高値がついた。

 ネット民の間では、かつての米騒動になぞらえて「平成の芋騒動」という言葉でも揶揄した。

 これを契機にポテトをめぐってさまざまな動きがこの2、3年起こっている。

 まずは農水省。ポテチショックを二度と起こすまじと、対策をぶち上げた。じゃがいも農家対策予算として30億円を計上している。

 北海道は日本の食料庫とも言えるほど、農産物・水産物の生産量が高い。日本の自給率はカロリーベースで割を切っているが、北海道は2倍。以下は東北地方が続くが、近年この地方の風水害が続き、日本の食料地帯に打撃が続いている。北海道には梅雨や台風が来ないということから、リゾート地として、食料庫として不動のポジションを維持してきたが、温暖化の影響もあってか、台風などの直撃を受けるようになった。加えて、地震などの災害も重なっている。

 余談だが、東日本大震災以降、日本列島は地震や火山噴火の活動期に入ったとされ、今後もどこで大きな災害を起こるかわからない状況にある。

 今回はじゃがいもがターゲットになったが、地域に集中している特産品が壊滅するようなことがいつ起こるとも限らない。特産品の分散化は今後の日本の農業のテーマとなろう。

 閑話休題。このポテチショックはメーカーの戦略に大きな影響を与えたようだ。ポテトチップス市場は7割以上占めるガリバー、「カルビー」と2割強の「湖池屋」で市場の9割以上を占める。両者もポテチショックで複数の人気ラインナップを廃止せざるを得ない状況に陥ったが、ガリバー、カルビーはこれを機にポテトチップスのカルビーからフライドポテトのカルビーへと脱皮を図ろうとしている。

 実は近年ポテトチップス市場全体の売上は頭打ち傾向にあり、王者カルビーもその市場を牽引できていない。市場占有率も7割でとどまっている。

 

 

 一方同じじゃがいもの加工品の加工品として人気をポテトチップスと二分するフライドポテトの市場はここに来て拡大基調で、フライドポテトの専門店も増えている。

 その背景には訪日外国人の増加がある。とくに東南アジアや西アジアのイスラム圏から旅行者に対してタブーを気にせず提供できるのがフライドポテトであるからだ。

 カルビーは、北海道の契約農家を中心のじゃがいもを、当面はコンビニやスーパーでカルビーの袋入りではなく、業務用フライドポテトを提供する模様だ。

 また、ポテトチップス好きの若者を中心に常識化しつつあるのが、ポテトチップスを箸でつまむという作法である。これはスマホを使う若者が、手づかみしたポテトチップスの油がスマホの操作画面に付着することを嫌い、窮余の策として生み出された新習慣である。

 巷ではすでにポテトチップス専用のトングなども販売されている。

 

  

 こうした流れのなか、ポテトチップスメーカー側では、手を汚さないポテトチップスの開発も進んでいる。ポテトチップスメーカーの雄、湖池屋は手を汚さずに食べられるポテトチップスを開発した。それが「ワンハンドポテチ」だ。ポテトチップスの形を棒状にして、片手で握られるサイズの袋に詰めたもので、袋の端を切り取ると、袋を傾けるだけでそのまま口に流し込める。もはやポテトチップスは食べ物ではなく、「飲み物」となってしまったようだ。

 

 

TOP

JOIN US! 私たちの想いに共感し、一緒に働いてくれる仲間を募集しています!

CONTACT お問い合わせ

TOP