COLUMN ビジネスシンカー

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2020.06

ポストコロナ時代の羅針盤
知って目からウロコ!
開疎化の時代の産業集積入門

製法特許を拒否、
作り方を周りに伝授した
「ふくや」の創業者

やがてふくやの明太子が話題になるにつれ明太子を売り出す業者も出てきた。とくに1960年頃から75年頃にかけて明太子は福岡市内を中心に製造業者が急増する。

実はこの広がりは、川原さん自身が明太子の製造を周囲に勧めたことがきっかけだ。

ふくやの存在が話題になるにつれ、福岡への出張者が中洲市場に入っているふくやを訪ねてくるようになる。しかし市場のなかの位置が複雑で、客のほとんどが場所を間違えていたのだ。毎回間違えられてしまった店の主人は丁寧にお客を案内してくれた。しかしあまりに同じことが繰り返されるので、その店の主人は親切心で「うちにふくやの明太子を置かせてくれないか」と申し出たのだ。

しかし川原さんは「卸はやらない」と即座に断り、代わりに「おたくも明太子をつくったらどうか」と提案したのだ。驚く主人に川原さんはその店の主人に10年かけてつくりあげたレシピをあっさり教えたのだ。そして間もなくふくやの隣と斜め前の店が自社製の明太子を販売するようになったのだ。

こうして明太子メーカーが徐々に増えていきます。すると危機感を抱いたふくやの社員は川原さんに「商標登録」や「製法特許」の取得を勧めた。しかし川原さんはこれを断った。

「漬物にはさまざまな味がある。同じ大根でも白菜でも漬け方次第で味がかわる。そんな漬物に商標はあるか? 製法特許はあるか? 明太子は誰がつくってもいいではないか」と。

1975年に東京〜博多間で新幹線が開通すると福岡への出張者はますます増え、お土産や特産グルメとしてさらに認知度が高まっていく。1980年頃にはふくやのレシピから派生した大手明太子製造業者が一般消費者向けに、惣菜用パック入り明太子を販売したことで、全国的に明太子の売り上げが拡大していった。

福岡の明太子が今のポジションを確立した陰には、創案者である川原さんが独り占めせずに「明太子を漬物のように広めたい」という思いがあったからこそだ。

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