COLUMN ビジネスシンカー

  • SHARE
  • LINE
2020.06

ポストコロナ時代の羅針盤
知って目からウロコ!
開疎化の時代の産業集積入門

泉州タオルの立役者、
井上コマと里井圓治郎

泉州は知る人ぞ知るタオル製造業の集積地だ。泉南地域にタオル工業が根付いた背景には江戸時代初期から一帯が綿作や綿布生産の拠点であったことが挙げられる。

タオルと綿布は原料が同じ綿であり、また糊付、製織、晒・染などの生産技術に類似点が多く、綿布生産からタオル生産の移行が比較的スムーズに進んだ。

大阪におけるタオル産業の誕生には2人の人物が大きく関わっている。

1人は大阪中之島のメリヤス織物業者井上伊八の妻コマ。もう一人が大阪タオルの創業者である里井圓治郎だ。

井上コマは1880年頃、取引先の雑貨商で舶来雑貨の中からタオルを見つけ出し、国内製造を思い立つ。その頃タオルは極めて高価な輸入品だ。コマは国内で製造販売すれば、膨大な利益が得られると考えた。コマはビロードとタオルに類似点があることに着目し、京都西陣のビロード機業家に相談したところ、ビロード製機の模倣からタオルの輪奈(わな)を作り出すことに成功する。

里井の場合は、ドイツ製のタオルを知ったことに始まる。彼はタオルの吸水性が高いことに着目。特に輪奈による表面のでこぼこが、体をこするのに適していると考え、1885年頃、研究に着手し、タオル生産体制を確立する。井上コマと同様にタオルを低価格化することでその普及を図ろうと考えていた。

里井は当初、井上コマが創業者となった竹織法と言われる技術でタオルを生産していたが、しかしその方法では手間がかかり、コストダウンを図っていくことは容易ではなかった。

1887年、里井はテリーモーションと呼ばれるパイル(布地表面にできた輪状の織のこと)を作り出す技術を確立した。これが大阪タオルの工業化の起源といわれており、また日本のタオル産業の発祥とされている。その一方で、海外からの生産技術も導入されていて、1906年には大阪の佐野村(現在の泉佐野市)ではイギリス式のタオル織機が運転されていた。

泉州タオルはこのように輸入タオルに触発された複数の人物が、生産技術を学び取り、あるいは自社開発し、改良を加えながら発展していく。

明治期の市場を牽引したのは海外への輸出だった。

里井が期待するほど国内ではまだタオル需要はそれほど伸びず、国産タオルは主に大阪の貿易商を通じて中国や台湾、朝鮮などに送られていた。輸出港である大阪とのアクセスが良かったことも、泉州タオルの発展に有利に働いたようだ。この頃の全国のタオル輸出量は全生産量の7割程度と言われている。

国内のタオル市場が広がっていくのは大正時代である。いわゆるモダンガール・モダンボーイをシンボルとする西洋文化が都市を中心に広がり、タオルが認知されていったのだ。国内需要は日清戦争直後(1895年)の30%から大正初期には40%に拡大している。

明治から大正期にかけてのタオル産業の特徴的な現象は、全国的に生産地が集中していったことだ。大阪においては、佐野地区を中心とする泉南地域に生産が集中していく。その理由は当時電力事業の発展に伴い、力織機による生産が本格化したため、スケールメリットを求めた経営者たちが集まっていったから。またこの地域には南海電鉄が通り、原材料の購入や運搬、販売が抜群によくなったことも大きな要因だ。また1906年には佐野タオル共同会や23年には共同染色試験場が設置されている。

こうして泉州では物流や先端の技術などが共有されやすい環境が整っていった。

  • LINE