COLUMN ビジネスシンカー

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2021.04

天才作曲家ヴィヴァルディを支えた
世界初の女性楽団
「フィーリエ・デル・コーロ」

特別な英才教育を施さずに
生まれた天才演奏家集団

結論からすればピエタのフィーリエ育成プログラムは、格別に厳しいものではなかった。上述のようにピエタでは幼少時代は、読み書き、計算といった基本的な教育を行い、徐々に職業訓練に入っていく。子どもたちも何らかの労働も担っていたので、音楽の練習は火曜と木曜、土曜日の1時間だけだった。ほかに個人レッスンも受けることができたが、とくにフィーリエ創世期には昨今の英才教育のように1日何時間も個人レッスンが行われることはなかった。

フィーリエのメンバーは意欲的に学んだ。1曲でも多くの音楽を奏でられるようになること、彼女たちの励みとなっていたことは確かだ。

有名になれば、ピエタを出て独立した演奏家にもなれた。

たとえばマッダレーナは、結婚してピエタを離れ、ロンドンからサンクトペテルブルクまでの演奏ツアーを行った。彼女はバイオリニストであり、チェリストでもあり、チェンバリストでもあった。ソプラノの歌声も披露した。

フィーリエのメンバーとなれば、自分で立って自分の人生を歩むことができた。

ピエタ独自のシステムも彼女たちのモチベーションを駆り立てた。演奏や歌のレッスンを受け、新しいスキルが身についたと認められるとお金が支払われたのだ。

彼女たちの演奏がヨーロッパで驚きをもって迎え入れられたのは、1つの楽器の演奏に優れていただけでなく、複数の楽器を演奏できたことだ。とくに生涯をピエタで暮らしたフィーリエメンバーにとって、その意義は大きかった。

その1人、ペレグリーナ・デ・ラ・ピエタはバス歌手としてスタートし、バイオリニストとなり、その後オーボエ奏者となったが、オーボエ演奏家の間は看護師もしていた。彼女のオーボエは素晴らしかったようで、ヴィヴァルディは彼女のために特別なオーボエパートを書いたほどだった。だが60歳になると彼女の歯が抜け落ちてしまい、オーボエを吹くことができなくなった。彼女は再びバイオリンに戻り、70代になっても演奏を続けた。

彼女はまるで古くなった車を買い換えるように楽器を替えたのである。そうすることで、自活し、誰かに影響を与え続ける存在でいたのだ。

18世紀にピエタを訪れた、イギリスの旅行作家で音楽学者のバーニーは、彼女たちの演奏を目の前で2時間聴いた人物だ。

彼は「音楽のすべてが、バイオリンもオーボエもテノール、バス、チェンバロ、フレンチホルン、コントラバスさえ女性によって奏でられていた」と驚き、「さらに興味深かったのは、その演奏者たちが頻繁に楽器を交換していたことだ」と記している。

自在だったのは、楽器の演奏方法もだ。

彼女たちは、神聖な音楽から世俗的な音楽まで教育を受けていたので、コンサートでは歌と楽器を自由に組み合わせて演奏することができた。いまでいう即興演奏である。

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