COLUMN ビジネスシンカー

  • SHARE
  • LINE
2021.04

天才作曲家ヴィヴァルディを支えた
世界初の女性楽団
「フィーリエ・デル・コーロ」

捨て子の演奏家集団だったフィーリエ

ヨーロッパ中の紳士淑女を魅了したベネチアの天使たちは、少なくとも容姿だけはその紳士淑女が描く天使からはかけ離れていた。

彼女たちの母親の多くは性産業に関わっており、彼女たちの多くは生まれる前から梅毒にかかっていた。彼女たちの容姿が天使のイメージから離れてしまったのは彼女たちのせいではなかった。

フィーリエのメンバー、すなわち聖歌隊の娘たちは、ピエタに捨てられた子どもたちだったのである。ピエタは当時ベネチアに4つあった慈善院で最大で、900名ほどの身寄りのない子どもたちが共同生活を送っていた。

子どもたちは生まれて間もない赤ん坊の頃、ピエタの壁の外側にある、航空機内に持ち込める手荷物にも満たないほどの「スカフェッタ」と呼ばれる引き出しに入れられていた。スカフェッタには、赤ん坊が入れられた時に鳴るベルがつけられていた。

ベルが鳴ってスカフェッタを覗くと、赤ん坊のほかに母親のものであろう指輪やコイン、アクセサリー、布切れなどが添えられることが多かった。それらは餞別や養育費というよりはいつか戻って、その子たちを取り戻すときのための符号として添えられていた。

そしてその符号の大半は、その役目を果たさなかった。

当代一のバイオリニストと称賛されたアンナ・マリアもその一人だった。彼女たちがピエタの姓を使っていたのは、フィーリエの屋号としての意味より、彼女たちが親や親類の名を知らないためだった。

親に捨てられた彼女たちは恵まれていなかった。だがピエタのスカフェッタに捨てられなければ、運河に捨てられていた。それに比べればまだ恵まれていたのである。

捨てられる子どもが多かったのは、ベネチアの宿命でもあったかもしれない。グランド・ツアーの目的地となったベネチアには上流貴族がこぞって訪れ滞在し、現地の女性と浮名を流して多くの落し胤をつくっていた。

たとえば、ポーランド王、アウグストゥス2世は、1716年から17年にかけ17 ヵ月ベネチアに滞在し、その間に365人から382人の私生児を産ませたと言われている。

  • LINE