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混乱の世で事業を成功させた企業家たち – [明治維新150年にあたって考える]大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか

明治期の成功した起業家に共通していたことは?

 今年は明治維新150年の節目の年だ。

 明治維新は日本史のなかでは鎌倉以降の武家政権の終焉を意味し、士農工商という身分制度が撤廃されたコペルニクス的な大変革である。

 幕藩体制、鎖国が終わり、さまざまな尊皇派、攘夷派、公武合体派などが入り乱れ、内乱や戦争が勃発し、混沌を極める時代である。人々は西洋との科学、国富の差をまざまざと見せつけられた。その混乱の時代にあっても高い志をもった若者が欧米の知識文化を吸収し、新しい日本をつくろうとしていた。

 現在のようなインフラや社会制度がまだ確立されてない時代。彼らのなかには現代では想像もつかない苦労を重ね、私たちが夢にも思わない豪胆なアイデアと行動力で道を切り開き、いまにつながる企業の礎を築いた人もたくさんいた。

 大阪大学名誉教授の宮本又郎さんによれば、幕末から明治期を通じて企業を興隆させた人物のタイプには5つあったという。

 1つは江戸期の豪商が幕末から明治維新の混乱を経て没落していくなかで、経営改革や制度改革を通じて、近代企業へと脱皮したケース。いわば「旧商家の再勃興タイプ」。

 2つめが幕末、明治期にかけての混乱期にビジネスチャンスを見出して一気に成長した、「明治ベンチャータイプ」。

 3つめが欧米などの技術を積極的に取り入れ、あるいはこれまでの技能や技術を生かし成長した「技術・技能タイプ」。

 4つめが、社会が求めている困りごとの解決を事業として挑んだ「社会的企業タイプ」。

 5つめが、資産家と企業家を結びつけて、ときに政府に関わりながら事業を生み出していった財界指導者と呼ばれる人たちが興した企業群。すなわち「財界指導タイプ」。

 これら5つのタイプの人たちが、さまざまな人と巡り合い、時に裏切りに遭いながら、自分の能力と未来を信じて、運命に翻弄されながらも明治という新時代を切り拓いていったのだ。

 この5タイプ分けはいわば後づけの結果論だ。ただ5タイプに共通していることは、武士や商人、農民といった従来の階級、身分に囚われない人であったことだ。いわば境界線からはみ出たマージナルな人、”マージナルパーソン”と言えるような人たちである。

農民から一気に幕臣に上り詰めた「国造りの神」渋沢栄一

 たとえば、みずほ銀行の前身の第一銀行や東京海上日動火災保険の前身、東京ガスの前身、そして事業家と行政、政治をつなぐ商工会議所など、500もの会社・組織に関わり成長させ、日本の「国造りの父」と言われた渋沢栄一がそうだった。

 渋沢は武蔵国榛沢軍血洗島村、現在の埼玉県深谷市の農家の出。維新のわずか数年前の1861年、22歳の時に家業に暇のできる春先だけを条件に江戸遊学を果たすが、当時日本中を巻き込んでいた攘夷論に刺激を受け、のめり込んでいった。

 そして実際に志を同じくした若者とともに、1863年に横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てるが、ちょうどその時、京都で政変が起き、攘夷の急先鋒である長州藩が京都から追放されると、渋沢ら一行はお尋ね者として追われることになる。

 だが人の出会いは不思議だ。渋沢は京都に逃げ、たまたま出会ったのが幕府の一橋家で最期の将軍となる徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の用人だった。渋沢はその口利きで慶喜に仕えることとなる。

 これが渋沢の運命を大きく変えたのだった。

 渋沢の実家は農家でありながら、小作人を抱える豪農で、貸金業も行っていた。このため少年時代より経理、理財に詳しかった渋沢は一橋家で重宝され、一橋家の勘定組頭に出世する。関東や播磨、摂津など一橋家の領地から農兵を集めて編成する仕事も任されるようになった。

 そして1866年、攘夷派の長州を討とうと戦いを進めるなか将軍徳川家茂が大阪城で亡くなると、慶喜に将軍の座が回って来る。ここで渋沢は自動的に幕臣となったのだ。

 豪農とは言え、農民の子が幕臣にまで一気に出世することは通常は考えられないことだったが、すでに江戸の後期では士農工商の原則は崩れ始めており、たとえ農民の師弟でも学問が優れていたり、商才に長けている者は、名字や帯刀を許される者も出ていた。とくに幕末ともなると、国家体制の基盤であった幕藩体制がゆらぎ、身分を問わない実力者が権力者によって引き立てる機会が増えていった。

 それは時代の波でもあり、またその時代に生まれた者の運でもあった。渋沢はまさに運の男でもあった。

運良くヨーロッパ遊学を果たした渋沢栄一が出会った「バンク」

 実際幸運は続いた。1867年に、フランスのナポレオン三世から万国博覧会の招待を受けた慶喜の弟、徳川昭武(とくがわあきたけ)一行に世話係としてパリに随行するチャンスを得たのだ。そして渋沢は万博が終わった後もパリに滞在し、遊学を続けることができた。

 この時もっとも心を動かされたものが、「バンク」という仕組みだ。当時のパリには一般大衆から小額であるものの、資金を集めてそれを運用するバンクが確立していた。

 バンクは集めた資金を企業に貸し付けて、企業の経営者がこれを的確に運用し利益を上げれば、その利益に応じた形で出資者に還元される仕組みとなっていた。つまり現在の株式会社の原型である。

 その遊学時代、渋沢が感銘を受けたのは、ヨーロッパの行政官や軍人が商売人たちを蔑むことなく、むしろ敬意をもって迎える姿だった。とくに当時のベルギー王に謁見した際には、「鉄を多く使う国が強国である」と教えられて、「日本は鉄が少ないだろうからベルギーの製鉄を買うように」と、一国の王が自国の商品を勧める商人のようなことまでする姿に、渋沢はたいそう感激したという。

 渋沢がフランスから帰国した時には、すでに大政奉還がなされ、時代は一変していた。渋沢が仕えた一橋家は静岡で謹慎させられており、無禄となった旧幕臣が移住していた。

 渋沢は早速フランスで学んだ事業の手法を実践する。明治新政府は新しい通貨として太政官札(だじょうかんさつ)を発行し、これを流通させるために旧藩の石高に合わせて貸し付けた。渋沢はこの割り当てられた太政官札と静岡藩士や商人たちから募った出資金と合わせ、半官半民の事業会社「静岡常平倉(しずおかじょうへいそう)」を設立する。

 静岡常平倉での事業は、無給となった幕臣たちによる静岡特産の茶の栽培や養蚕を行い、特産品として販売することだった。このほかにも地元の商工業者への貸付も行って、出資者に応じた配当も出している。

 渋沢の事業は、商品づくり、話題づくりもうまく、見事に成功した。するとこの渋沢の手腕に新政府が注目することとなる。

 1869年に、当時の大蔵大輔(いまの財務大臣)である大隈重信から招聘を受け、新しい局で財政・金融制度の確立に取り組むことになったのだ。

 渋沢が後に500もの企業の設立発展に関わるという超人的な仕事を成し遂げるベースは、この時に培われた。

 渋沢は、貨幣制度や租税制度だけでなく、そのための測量制度、その後に行われる廃藩置県によって生まれる諸官庁の設立、海運、鉄道などの運輸交通の整備といった、あらゆる制度の原案を提案し続けた。

 そして渋沢は、日本社会、商工業を発展させるためには、株式会社を社会に根付かせ、それを支える金融制度の起点となるバンクを実現することを上司や政治家に説き、三井や小野といった旧商家と共同で銀行を設立した。

 渋沢は1873年に大蔵省を辞職。その後は在野で次々と会社を設立したり、設立の支援をした。

 みずほ銀行の前身である第一銀行や、三井住友銀行の前身の三井銀行などの銀行はもとより、東京海上日動火災保険の前身の東京海上保険などの損保会社、東急電鉄、東京メトロの前身の目黒蒲田電鉄、東京地下鉄道、王子製紙の前身である抄紙会社、東洋紡の前身の大阪貿易会社、東京ガスの前身の東京瓦斯会社、帝国ホテルなど、まさに「国造りの神」の名にふさわしい、ありとあらゆる会社を手がけている。

 これだけの数の企業を生み出せた背景には、当時がまだ株式会社の制度、金融制度が社会の信任を受けていなかったことがあった。そのため渋沢の名前が会社に連ねられていることでこの信用を得たという側面もあった。

 渋沢は70歳の古希を機に、第一銀行と銀行集会所を除く全ての会社から引退し、その後はもっぱら社会事業や公共事業に専念している。渋沢は障害者や孤児、病者などの保護施設、養育院の初代院長を務めてもいる。

 晩年渋沢は『論語と算盤』を著し、そのなかで「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と語っている。

村長を辞めて、相場師となった鉄道再建王

 明治時代は、鉄道網の整備、大型汽船による大量輸送網が急速に発達した時代だった。

 よって輸送機関を使って事業を興した企業家は少なくない。まるで現代において、インターネットで一旗揚げようと起業するネットベンチャーのようだ。

 その代表格が阪急電鉄グループの創始者小林一三(こばやしいちぞう)であり、数々の鉄道を再建し、鉄道王とも鉄道再建王とも言われた東武鉄道の経営者となった根津嘉一郎(ねづかいちろう)、その強引な企業買収から”盗人”揶揄された東急電鉄グループの五島慶太(ごとうけいた)、その五島と張り合った西武鉄道グループの堤康次郎(つつみやすじろう)などが挙がってくる。

 このうち根津と小林は奇しくも同じ山梨県出身だった。

 根津は1860年、農業を営みながら雑穀業や質屋業を営む豪農の家に生まれている。18歳で役所の所員となると、その後、親の反対を押し切り山梨県会議員に立候補、当選。さらに村長となるも1897年、37歳の時に村長を辞めて、株の相場師となっている。

 根津が株の相場師となったのは、地方政界に限界を感じ、中央政界で活躍したいと思ったからだと言われている。相場師はそのための資金づくりで、旧知の同郷の若尾逸平が勧めによるものだった。

 若尾は根津に「これからは電灯と乗り物だ」と説いた。これを受けた根津は若尾の説くように、東京電灯(現在の東京電力)の株をはじめ、貿易関連の株を買い進めていった。株式相場は折しも日清戦争の特需で急騰する。だがその後暴落、大半が紙くずとなった。ただメインの東京電灯だけは若尾と買い進め、1899年には大株主として監査役に就任することになった。

 この監査役就任が根津の人生を変えていった。すでにこの頃には中央政界への関心は薄れて、事業家として野心が勝っていた。

 1901年には、日本初の私鉄である「東京馬車鉄道」の監査役ともなり、鉄道事業に本格的に関わっていく。根津は当時東京を走っていた東京市街鉄道、東京電気鉄道を合併すれば経費節減となると読み、東京府知事などや渋沢栄一などに働きかけ3社統合を果たし、新会社東京鉄道の取締役となる。

 3社統合が実現したのは、東京電灯時代に経費節減で実績を上げたことや、政治家としての経験がモノを言ったようだった。

 次に根津は経営難に陥っていた東武鉄道の再建に社長として乗り出した。東京電灯での実績を買われての社長就任だった。

 明治から大正期にかけては、日本の各地にまるで菌類が増殖するように鉄道網が広がっていった。とくに都心から郊外に伸びる線路のデスティネーションとなったのは観光地で、とりわけ巨大で有名な寺社仏閣がある場所は集客が見込めるため、一番の目標となった。

 当時の東武鉄道は亀戸と埼玉県の羽生のみの営業区間で、根津は日光まで延伸させる構想を持っていた。その実現には2つのハードルがあった。

 1つは莫大な費用がかかる利根川の架橋。もう1つは日光の旅館業者の反対だった。鉄道が延伸すれば、都心から日光まで日帰りされてしまう懸念があったからだ。

 反対の急先鋒は東照宮の宮司であった。根津はその宮司に「それは同じ人数を数えているからで、鉄道が延びれば2倍、3倍のお客が来る」と説得した。

 利根川の架橋については、リストラや本社の移転などで費用を捻出し、ついに浅草から日光までの延伸を実現する。すると根津が言ったように日光の参拝客は30万人から100万人に伸びたのだった。

 根津はこうして経営難に陥った鉄道会社を次々と立て直していく。生涯に事業に関わった鉄道の数は24社にのぼった。また鉄道だけでなく、社会事業にも努め、武蔵大学の前身である武蔵高等学校や、地元山梨県の小学校や図書館の建設を援助し、県下のすべての小学校にピアノを寄贈している。このほか、美術品などのコレクションにも熱を入れ、後年「根津美術館」として公開されるようになった。

沿線開発で資産価値を引き上げ、キャッシュを増やした小林流錬金術

 一方阪急電鉄の小林は、根津と同様に農業と酒の問屋を営む豪農の子として生まれている。このあたりは根津と被るところがあるが、小林はもともと作家志望で、進学した慶応大学時代には、地元の山梨日日新聞などに小説を連載していたほどだった。

 卒業後は都新聞(東京新聞の前身)に入社する予定だったが叶わず、三井銀行に入行し、銀行員として14年過ごした。ただ本来銀行員のような固い商売は似合わなかったようで、得意先と一緒にかなり遊び回っていた。

 しかし、現在に至る宝塚歌劇団や駅直結のターミナルデパートなどの、ユニークな事業家としての発想は、この頃の遊興によって培われたものだった。

 小林のその豪快な遊びとユニークな発想は、上司であった岩下清周から目を掛けられていた。この岩下との出会いが、後の小林の人生を変えていく。岩下は大阪支店長時代、積極的な拡大を図るが、この拡大が三井の方針と合わず、辞職し、自ら北浜銀行を設立する。

 この時小林も北浜銀行に転職するつもりだったが、三井側に察知されたのか、タイミング良く名古屋支店に転勤となる。その後大阪支店に戻り、さらに三越呉服店に移るも、うまくいかず、結局退職した。

 小林が旧知の岩下に転職を相談すると阪鶴鉄道の監査役を紹介される。しかし阪鶴鉄道は国有化で買収される予定となり、立ち消え。そこで頼ったのが阪鶴鉄道の株主が計画していた新規鉄道線事業だった。小林は岩下の北浜銀行と、慶応閥の先輩などからなんとか融資を受け、1907年に箕面有馬電気鉄道の設立にこぎつける。

 しかし、小林の思いとは裏腹に世間の評価は厳しかったようで、「空気を運ぶ電車」と揶揄されていた。というのも沿線一帯は農村地帯で、大阪を離れると住宅地らしい住宅地がなかったからだ。

 小林は逆にそこに目をつけた。沿線に戸建て住宅を次々と建てて、しかも当時珍しい月賦販売とした。公務員初任給50円時代に「月12円を払っていけば10年で自分の家になる」と宣伝したのだ。

 一方投資家向けには、沿線価格が安いので、坪1円で買って鉄道敷設後に坪2円50銭で売ればいいと謳っていった。やがて沿線には関西学院、甲南女学院、神戸女学院などの有名私学が立地し、沿線の人気が高まっていく。

 才気ある小林が次に目をつけたのがレジャーだった。当時寂れた温泉街だった終点の宝塚に、家族が楽しめる豪華な大浴場を設えた日本初の室内温泉水浴場をオープンさせ、さらにそこに少女を集めた歌劇団をつくったのだ。これが現在の宝塚歌劇団のルーツである。

 アイデアに富んだ小林は、その後ターミナル駅に直結したデパート、”ターミナルデパート”を梅田駅にオープンさせる。家族で楽しめる高級食堂を最上階につくり、接客スタイルをマニュアル化し、洗練されたイメージを作り上げた。このターミナルデパートのコンセプトは、その後五島慶太の東急や根津嘉一郎の東武、堤康次郎の西武などにも導入されていった。

 小林も東武の根津も、鉄道だけでなく複数の事業、会社に関わっていったが、根津が複数の鉄道を運営していったのに対して、小林は鉄道を軸としながら周辺の事業開発で業容を広げていったところに特徴があった。

株の買い占めで企業を統合し、経営権を取っていった東急の五島

 その小林と並び称されたのが五島慶太だった。五島は長野出身。小さい頃からわんぱくで負けず嫌いだったようだった。小林や根津と同様に豪農の出で、実家はやはり農業だけでなく製糸業などを営んでいた。

 東京師範学校を出て一旦教員として務めるものの、一念発起して東京帝大に入り、卒業後は将来を見越して農商務省の鉄道院に入った。だが”単調な役人生活に飽きて”、退職。

 しばらくすると東京進出を伺う小林から荏原鉄道の協力を依頼される。五島は取締役として引き受ける。ここから五島は自分の鉄道王国計画を加速させた。

 五島は官僚時代に身につけた予算管理法で、合理的な経営術を展開するとともに、小林が生み出した鉄道事業と沿線開発による資産形成と、そこから生み出すキャッシュでさらに鉄道事業を広げる手法を、より果敢に展開していった。

 また官僚を辞した頃”国造りの神様”渋沢栄一と知り合ったことも大きかった。渋沢は英国の田園都市構想に憧れ、世田谷南部の洗足や玉川一帯で実現しようと考えていた。都心とこの田園都市をつなぐには鉄道が必要であり、その主導者となったのが小林だった。しかし小林が関西で手一杯だったため、一帯の鉄道事業を五島が動かすようになっていった。

 五島は小林同様に住宅や学校、デパートをつくるだけでなく、事業性があるとみたものは株を買い占めるなどして合併し、経営権を握っていく。

 やがて五島は三井グループのメインビジネスである三越の株を買い占めて東急百貨店と合併させ、経営権を握ろうとした。結局支援銀行からの融資が止まり失敗するが、ほかにも株を買い占めて合併・統合させる手法で鉄道事業、その周辺事業の実権を握っていった。

 当時こうしたやり方は珍しくなく、根津や小林もそういうやり方を取っていたが、その目立って強引なやり方に、いつしか世間は五島を「盗人五島」と呼ぶようになったのだった。

汽船3隻で財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎

 明治期に会社を成功させるには、海運も決め手だった。

 日本を代表する企業グループ「三菱」の基礎を築いた岩崎弥太郎も、海運で事業基盤を築いた人物だ。

 岩崎は高知県の現在の安芸市の、代々郷士の家に生まれた。しかし岩崎が生まれた時には郷士株を手放して、地下浪人となっていた。名字帯刀は許されたが、実質的に農民だった。

 岩崎は将来学問で身を立てていくつもりだった。1854年、19歳の時、江戸で遊学する機会を得た。学問の重要性を理解していた父母はその費用を先祖代々の山林を売ることで工面した。

 江戸に出た岩崎は、世間が尊皇派や攘夷派、公武合体派などが渦巻く世間の風を敏感に感じながら、私塾「見山塾(けんざんじゅく)」で猛勉強した。しかしまもなく父親が酒席で庄屋と喧嘩をして重傷を負ったとの知らせが入る。岩崎は急いで帰郷した。

 帰郷した岩崎は、すぐさま父のために奉行所に庄屋の非を訴えた。しかしそれが叶わず、腹いせに奉行所を非難する漢詩を奉行所の壁に貼り出して、投獄されてしまう。

 岩崎はこの件をきっかけに権力に対する反骨心を強めていく。だがこの投獄は後々に岩崎に僥倖をもたらした。

 獄中で知り合った商人から算術を教わり、商売の楽しさを知ったからだ。

 7ヵ月後、釈放された岩崎は、高知城近くで商売を始めた。この時近所に土佐藩の藩政改革を主導していた吉田東洋が私塾を開いていた。実は吉田も江戸の藩邸の宴席で、藩主山内容堂が招いた客人を殴り、謹慎中だった。

 もとより向学心の高い岩崎は吉田の私塾に入門。その後謹慎が解けた吉田が藩政に復帰すると、才能ある岩崎も登用される。

 吉田の藩政改革は藩内に特産品を中心とした産業を興し、外国と交易して軍を近代化する、いわゆる富国強兵策だった。藩は岩崎に外国と交流のある長崎に調査に向かわせた。外国にはどんな産品が売れるのか、どんな期待をしているのかを調査するためだった。しかし岩崎はどのような調査をしていいのかかいもく分からず、連日異国人を招いてどんちゃん騒ぎを繰り返し、たちまち公金を使い果たしてしまう。

 結局、調査はまともに進まず、ただ公金を使い果たして藩に帰ることになった。岩崎は当然大叱責を受け、職を罷免されてしまう。

 しかし、この長崎での調査が後の岩崎の人生のベースをつくりあげる。

 半年に渡った長崎暮らしで、異国の暮らしと海運、貿易にいたく刺激されたのだ。

 岩崎はしばらく在野で暮らしていたが、再び藩から声がかかった。土佐藩は長崎の出張所である長崎商会を通じて貿易を始めたものの、欲しい商品が多すぎて輸入超過となり、財政の立て直し役に白羽の矢が当たったのだった。

 当時の各藩は、風雲急を告げる時代の変化に対応すべく、武器や船舶を大量に購入しようとしていた。台所事情の苦しい土佐藩にとっては、難題であったが、岩崎は先の長崎遊学で知ったグラバーなどの支援もあって、他藩に有利な状況で購入を進めることができたのだった。先の放蕩にも近い行いがここで活躍することになったわけだ。

 その後、大阪と神戸が開港し、土佐藩は長崎商会を閉め、大阪に拠点を移して大阪商会を開く。

 1870年、土佐藩はさらに大阪商会の名称を「九十九商会(つくもしょうかい)」に変えた。これは明治新政府が中央集権を進めるために繁営する各藩の事業を禁止しようとしたためだった。岩崎はこの際、この九十九商会の実質的トップとなり、その運営に力を発揮する。この時の事業の中心は土佐藩から払い下げを受けた3隻の汽船だった。

 その後の廃藩置県で土佐藩が消滅すると岩崎は藩士らを引き受けて、九十九商会の事業を引き継いだ「三川商会(みかわしょうかい)」の経営者として、海運業を中心に発展させていく。すでにこの時期にはあの三菱マークを使っていたようだ。

 岩崎の会社は、その後の台湾出兵や西南戦争での新政府の物資輸送に使われたこともあり、いわゆる政商の色を濃くしていった。その献身ぶりは徹底しており、西南戦争時には定期航路を運休して政府に協力していた。西南戦争終了時に三菱は日本の汽船総トン数の7割を占めていたと言われている。

幕末の紛争期、銃器店で一儲けし、自費で外遊した大倉喜八郎

 三菱の発展は、岩崎の長崎での体験を元に、武器や船舶を取得したことが、その足がかりとなったが、同様に混乱期に武器に目をつけて財閥を築いた人物がいた。帝国ホテルやホテルオークラ、大成建設、サッポロビール、あいおいニッセイ同和損保、日清製油などの大倉グループの創始者、大倉喜八郎だ。

 大倉は1837年に新潟の新発田(しばた)の商家に生まれた。17歳の時に上京し、3年後に「大倉屋銃砲店」を開業する。当時は国内のあちこちで争いが起こっている時代、大倉は銃が時代の必需品と読み、江戸と横浜の外国商人との間を往復しながら、短期間で富を築いていった。

 大倉はこの金をもとに1872年、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどを歴訪している。皇族でも海外渡航が難しい時代に自費で渡航できたことは、いかに銃器が儲かったということであり、時代を読んだ大倉の眼力には驚かされる。

 渡航の目的は「出貿易」だった。大倉によれば、従来の日本は日本に居ながら貿易をする「居貿易」で、これからは外国に出て貿易をする出貿易の時代だというものだった。

 帰国後大倉は「大倉組商会」を設立する。資金は、自己資金に旧新発田藩主や、昔、小銃を提供し支払いを猶予した旧津軽藩の津軽家が恩義で出資した。

 大倉組の飛躍のきっかけは台湾出兵であった。すでに三菱の岩崎などが政府に船を用立てたが、台湾での兵舎の設営などは危険が伴うため、三菱や三井といった御用系の商人は現地入りを渋っていた。

 そこで大倉組は台湾征討軍の現地での補給支援に手を挙げる。台湾では大倉自身が指揮を取ったが、疫病などで人夫128人を失う難事業だった。しかしこの生死をかけた仕事が評価され、その後日清、日露戦争の際、政府に武器などの兵站(へいたん)で協力、政府との関係を強めていった。

 ただ動乱や戦争に乗じて富を蓄積する大倉に対して、いつしか世間は”死の商人”と呼ぶようになる。

 大倉は政府とのパイプを生かして、次々と新規事業を始める。1887年には、藤田組(藤田観光などのフジタ財閥の前身)ともに日本土木会社を設立し、皇居造営や帝国ホテル、佐世保軍港の建設など国家的事業を手がけた。

 また軍用の需要が多かったことから皮革製品の製造、製靴事業なども手がけた。このように軍需のあるところに大倉は積極的に事業展開していったが、本人は軍国主義な考えはなく、商売が成立するのであれば、組む相手は誰でもよかった。

 また大倉は社会的事業にも熱心で、大倉商業学校(現・東京経済大学)や台湾協会学校(現・拓殖大学)を設立に関わったり、文化財の散逸を防ぐために東洋美術の収集を進め、大倉集古館などもつくっている。

 大倉は明治を代表するような豪胆で意欲的な商人で、その情熱と体力は晩年になっても衰えなかった。88歳の時には、「自分の所有地の一番高いところに登りたい」と南アルプスの3121mの赤石岳(あかいしだけ)に登頂し、世間の度肝を抜いた。

 事業意欲ももちろん晩年になっても衰えず、90歳で亡くなる前年まで大倉財閥のトップとして君臨し、愛人を別邸に住まわせ80を過ぎて2人の子どもをもうけている。まさに明治の時代を自在に生き抜いた人生だった。

天秤棒を担いだ行商から伊藤忠、丸紅の巨大商社の礎を築いた近江商人

 明治はまさに鎖国が解かれ、海外の物質文明、技術、文化が怒涛のように流れ込んできた時代であった。当然海外との取引に関心を持つ企業人が増えてもおかしくなかった。日本特有のビジネスモデルに総合商社があるが、その萌芽はこの明治期にあったようだ。

 2016年には総合商社として売上トップの座に就いた「伊藤忠商事」、そして5大商社の一角を占める「丸紅」。この2つの創業者となっているのが、近江の行商人の家に生まれた伊藤忠兵衛だ。

 行商は近江商人の伝統的なビジネスモデルだが、伊藤は15歳から叔父について京都や泉州、紀州などに天秤棒を担いで、問屋や小売に麻布や帷子を卸していた。伊藤は幕末の混乱期、諸般の規制が緩んだタイミングで、下関や長崎にも足を伸ばし市場を開拓している。機を見るに敏な現代の商社マンの片鱗が伺える。

 1872年に伊藤は長年開拓してきた九州の市場を兄、長兵衛の本店「紅長」に譲る。これを機に行商を辞め、大阪に番頭と二人で呉服商「紅忠」を開いた。紅忠の登録商標は紅の文字を◯で囲んだものとし、屋号を「伊藤本店」とした。

 1886年には、次男精一の誕生(後の二代目忠兵衛)を機に伊藤西店を開いて、イギリス、ドイツに店員を派遣してラシャを輸入、その卸をはじめている。これが後のアパレルの伊藤忠の素地に繋がっていった。

 精一は18歳になると二代目忠兵衛として伊藤本店に入店。4年後店主となると特色を出すべく、自らイギリス留学に出発、ヨークシャーの商工学校に入校する。そこで綿や毛織物の取引や手形割引などを学び、そこで築いたネットワークで代理店を通さない取引を実現していった。

 1914年に伊藤忠合名会社として法人化を図ると、18年に持株会社化して、国内取引用の「伊藤忠商店」と海外向けの「伊藤忠商事」を誕生させる。さらに21年に兄の長兵衛の店と、伊藤忠商店が合併し、株式会社丸紅商店が誕生、ここに伊藤忠と丸紅という二大商社の基盤ができたのである。

 代々の商家に生まれたとは言え、天秤棒一本から巨大商社を2つも築いた伊藤忠兵衛の経営力は、時代の先を読む慧眼に集約されそうだが、そのバックボーンには、近江商人のDNAが組み込まれているようだ。

 伊藤は利益を「本家収め」「店舗積立て」「店員配当」の3つに分け、管理する「利益三分主義(りえきさんぶんしゅぎ)」を打ち立て、以後、続けている。封建社会において、店員は一人前になるまでは奉公人とみなされ、最低限の給金しかなかった時代に、従業員にも利益分配を謳ったことは、現代においても十分先進的な経営モデルだったと言える。

歯磨きのテーマソングで衛生大衆運動を喚起した小林富次郎

 明治は大衆文化とマスメディアが一気に広がる時代でもあった。成功した企業人のなかにはこのメディアの扱いに長けた人もたくさんいた。阪急の小林一三はその代表だろう。もともと作家志望だったこともあり、人を引きつけるキャッチコピーの打ち出し方は時代の先端を行っていた。

 ほかに宣伝、広告の威力を知っていた人物に歯磨き製品や石鹸などで知られるライオンの創業者小林富次郎(こばやしとみじろう)がいる。

 

ライオンは初代小林富次郎が1891年に独立して、石鹸とマッチの取次販売業を興したことに始まる。

 当時衛生関連商品では歯磨き粉が勃興しつつあった頃で、資生堂など複数のメーカーが商品を出していました。小林は他社の人気歯磨き粉が自社の石鹸の倍以上を売り上げていることを知ると、歯磨き粉の成長性の高さに注目、自社製造に踏み切った。

 後発で参入したライオンは、市場を取っていくために宣伝に力を入れる。「宣伝は商品の肥料」という信念のもと、「ライオン歯磨き」と書かれた幟を多数掲げ、当時流行していた軍歌の歌詞を変えた「ライオン歯磨き宣伝歌」を演奏しながら街なかを練り歩いた。馴染みの曲に載せた斬新な歌詞は、たちまち人々に浸透し、ついにトップシェアを取っていく。この初代富次郎の成功は、二代目社長である二代富次郎にも受け継がれ、ライオンは売り上げを超えるほどの宣伝費を投入することも少なくなかった。

 初代と二代富次郎らは、商品を普及させるために「衛生」という観念を社会に打ち出し、雑誌や音楽(衛生唱歌というジャンルも築いた)などを通じて、それを大衆運動にまで高め、市場を広げ、付加価値をつけていった。

電柱を広告メディアに使ってロングセラーを生み出した森下博

 小林と同じように広告の力を最大に活かした人物が、森下仁丹の創業者、森下博だ。

 森下仁丹は、その名の通りメイン商品が仁丹である。仁丹は1905年発売のロングセラー商品。この仁丹のパッケージは口ひげをたたえた大礼服の人物像で知られている。

 これは軍服のように見えるが、往時の外交官をイメージして描かれたイラストである。なぜ外交官かというと、仁丹を国内だけでなく海外にも広めたいという森下の強い思いがあったからだ。一方でこの大礼服は立身出世のシンボルとして当時の庶民の憧れでもあった。つまり仁丹を服用し続けるとこんな世界が近づくというイメージを植え付けていたのだった。

 森下は1869年に現在の広島県福山市で、神社の宮司からたばこ製造業に転じた家に生まれた。しかし家業が上手く行かず、森下は9歳で同業者の丁稚に出されている。その後、父親が亡くなり一旦実家に戻るが、15歳で大阪に出て再び丁稚として洋品店に奉職することになる。

 同時代の起業家と同じように、ダイナミックに変化する時代の空気と、海外から入ってくる見たこともない商品に刺激を受け続け、1893年に独立を果たした。掲げた看板は「森下南陽堂」。薬種商だった。

 なぜ薬種かと言えば、当時はまだまだ医療機関が不十分で風や食あたりなどでも症状を悪化させる例が多かったからだった。森下は商品の自社開発を図り、美容剤や梅毒薬など社会ニーズに沿った商品を売り出すも、なかなかヒットしなかった。売り上げが上がらず、苦慮していたところに今度は台湾への出兵要請が来た。

 この出兵が森下の転機となる。森下は台湾の人たちが何かにつけ服用する小さな丸い民間薬に注目、新商品のヒントを得たのだ。

 帰国後、さっそく新商品開発に乗り出す。学者に意見を求め、自ら中国大陸に渡って薬草を探すなどして、10年の月日をかけて開発したのが仁丹だった。

 森下は事業を起こすに当たって、「広告による薫化益世(くんかえきせい)を使命とする」を基本方針として掲げていた。ライオンの小林のように「広告は商品の柱で肥やし」であるだけでなく、広く社会に役に立つものでなければならないというのが、森下の考え方だった。

 仁丹の発売当初のキャッチフレーズは「完全なる懐中薬、最良なる毒消し」。ここでいう毒とは、コレラや梅毒を指していた。また別に「最良なる口中香剤」というフレーズも用意していた。

 この韻を含んだ巧みなフレーズを新聞や幟などを使って宣伝すると、果たして仁丹はたちまち大人気商品となったのだった。

 森下はさらに従来、誰もが目をつけなかったものをメディアとして活用した。

 街なかの電柱だ。電柱には町名の地番が付けられているが、森下はその町名地番のプレートに仁丹の広告をつけて貼り出したのだ。当時は全国で郵便事業が始まった頃。郵便配達員は必ず電柱の地番で確認していたし、また鉄道網の発達で人々の移動も増えていたので、その効果は絶大だった。

 さらに森下は古今東西の金言、格言を厳選し、電柱広告をはじめ、プロモーション用の紙コップ、新聞広告などに載せるユニークな広告も展開した。森下のこの広告は「金言広告(きんげんこうこく)」として認知され、全国の学校から感謝状などが贈られた。

 ライオンの小林も、仁丹の森下も、単に商品の認知度アップだけでなく、商品のプロモーションを通じた文化の醸成を図っていたところに、明治という時代の企業人が抱いた使命感を感じずにはいられない。

 ここにご紹介した企業人は明治という怒涛の時代に大きな足跡を残した人たちの、ほんの一握りだ。記したエピソードもごく一部だ。

 しかし怒涛のように波打つ時代に翻弄されながらも、たぎるような情熱で自分の信念を貫き、時に敏感に風を読み、ひらりと行動する姿には100年以上経ても学ぶところが多い気がする。

 ルールらしいルールがない時代だからこそ、果敢に挑戦できたとも言えるが、ルールや枠に囚われず、果敢に挑戦すること、まっすぐ向かっていくことが、事業成功の大きな原動力となっているような気がする。

 また機会があれば、この時代の企業人を紹介したい。


POINT

■ 混沌の時代は、遠くを見ながら目の前の変化に対応する
■ 時には時代に抗わず時代に流される
■ 商品を売るだけではなく、商品と文化を売る
■ 徳、公平な商売を心がける
■ 利益は会社、社会、社員に不公平なく分配する
■ 欧米では商人は卑下されない
■ 身分や枠に囚われずにやれることをやってみる
■ 財をなす人の多くは社会貢献や社会事業に対して強い関心を持っている


【newcomer&考察】
サステイナブル社会への布石
捨てられる野菜を救え!広がるオルタナティブ野菜マーケット

 食べ物の廃棄問題については、先の「統計データの見方のキホン」でも触れた。

 日本の流通に乗っている日本人1人あたりのカロリーと、実際に消費されているカロリーのギャップが700キロカロリーもあるということだった。その理由の1つが、日本人のダイエット志向と野菜消費へのシフトだった。

 付加価値の高い高級野菜が増えることは、農家の収入も上がり、若い世代の農業への関心、就業にもつながり、好循環が生まれるきっかけとなる。好ましいことでもある。

 一方で、野菜に対する目も厳しくなり、味や栄養分はもとより、見栄えに対する厳しさも増してくる。結果規格外の野菜が生まれやすくなる。 

 農家を悩ませる1つの種がこの「規格」問題だ。

 野菜は、天候や土地の特性によってサイズや形が変わっていく。農協を主な販路にする場合消費者に受け入れられて、それなりの収益を上げていくためには農薬を使って「決められた通り」に栽培し、決められたサイズと形に収まるようにしなければならない。この決められた規格から外れた野菜は、農家自身や地元の知人などで分かち合って使うなど、いわゆる自家消費で対応せざるを得ない。

 さらに台風や災害などで傷ついたりした野菜は、自家消費のレベルを超えて大量廃棄されることになる。

 台風や豪雨、雹などで手塩にかけて育ててきた野菜が収穫の目前で大量廃棄となったときの報道に際するたびに、農家の方々の気持ちを思い、胸を傷ませる人は少なくないだろう。

 こうした様々な禍難を受けて、廃棄される野菜を活用するオルタナティブな動きが各地で生まれつつある。

 2009年に開始した東京・原宿の表参道にオープンした「ファーマーズマーケット」。ここでは農家が自分で作った野菜に自分で値段をつけて販売している。道の駅などでも見かける仕組みだが、違いはファーマーズマーケットで売れ残った野菜を買い取り、周辺レストランに提供している組織が野菜の廃棄を防いでいることだ。それが「Re-think Food Delivery」というプロジェクト団体。スーパーで売られているものよりも新鮮で、なおかつ信念を持って作られたこだわりの野菜を食べる機会を提供している。参加レストランは渋谷区内に限られており事務局に事前にお金を預けることになっている。が、その日どんな野菜が届くのかわからないという。それでもこの仕組が続けられているのは、単純にここの野菜が美味しいからだ。野菜はその本来の価値である鮮度、美味しさ、栄養分とは離れたところで評価されがちだが、ここではいわば一番欲しがる人たちが、もっともリーズナブルな価格で入手できる、いわゆるWin-Winの関係が成立している。

Re-think Food Delivery紹介するプロジェクトメディア
『サンクフードニュース』

 長崎県のアイルという会社は、規格外の野菜と寒天使った野菜海苔「VEGHEET(ベジート)」を昨年開発した。原料は、野菜と寒天のみで、ペースト状に圧縮して余分な水分を取り除き、シート状に乾燥させた。VEGHEETを使った春巻や海苔巻きなど、新しい料理のバリエーションが展開できるほか、水で戻すと野菜の食感と味を楽しめる。開発に20年を費やしている。賞味期限は常温で2年と長く、災害時の備蓄食材としてのニーズもある。いまのところ人参を使った「ニンジンシート」と大根を使った「ダイコンシート」の2種類だが、今年6月から「イトーヨーカドー」で本格販売がスタート。さらに国内のみならず、フランスやイタリアなどの海外の星付きレストランでも使われ出している。

 廃棄野菜をTシャツにするビジネスも立ち上がっている。「FOOD TEXTILE(フードテキスタイル)」を展開する名古屋の繊維商社「豊島」が、昨年クラウドファンドで創り出したのが野菜の染料で染め上げた着る野菜Tシャツ「vegeco(ベジコ)」。かねてより女性農業者との協業を模索していた豊島が、農水省が推進する「農業女子プロジェクト」に参画したことがきっかけで出来上がった。豊島が国内外で特許を持つ特別な技術で野菜を繊維の色素に変換、天然染料80%を使いながら堅牢性をクリアした。

 ほかに廃棄野菜を使ったバッグや、赤ちゃんのよだれかけ、ソックス、コーヒー豆を使ったTシャツやエプロンなども展開している。

自然な色合いの野菜Tシャツ(豊島社 公式サイトより)

野菜染めのバッグ(豊島社 公式サイトより)

やさしい色合いのよだれかけなどの赤ちゃん向け商品
( 豊島社 公式サイトより)

野菜を使って生まれた「おやさいクレヨン」。10色のほか16色がある。
(mizuiro社 公式サイトより)

 捨てられる予定の野菜や果物をクレヨンに変えてしまった会社もある。「おやさいクレヨン」がそれだ。世界に類を見ない「クレヨン」を開発したのは、青森県のベンチャー「mizuiro(みずいろ)」。地元産の野菜をパウダー加工し、主成分のワックスには米油であるライスワックスを使用。すべて、”食品”が原料であるため、子供が舐めても害はない。特徴的なのはクレヨンのラベルには色の名前ではなく「きゃべつ」や「りんご」といった素材の名前が付けられていることだ。使うとほのかに野菜や果物の香りまで漂う。2014年の発売以来、3年間で約10万セットを売り上げるヒット商品となっている。全国のデパートのほか、ネット販売も行っている。

 「みずいろ」は、”親子の時間をデザインしたい”と思った、ある1人の子育て中の女性デザイナーが立ち上げた会社。その思いはさらに広がり、廃棄野菜を使った工作用粘土「おやさいねんど」や花を原料とした「おはなのクレヨン」、米を使用した「おこめのクレヨン」など、子どもたちが安全に安心して使える商品を続々と開発している。

 さまざまな理由から捨てられていく野菜。そこから生まれたオルタナティブ野菜商品。その原点は、つくり手である農家の人々の思いに寄り添っていったことにあったに違いない。

 廃棄される食品に対して、まだまだできることはありそうだ。

同じく野菜を使って生まれた「おやさいねんど」。(mizuiro社 公式サイトより)

お米を使って生まれた「おこめのクレヨン」。(mizuiro社 公式サイトより)

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