インバウンド絶好調の時代だからこそ、知っておきたい江戸時代の思想家たち 混迷の現代を照らす叡智 2
トランプ米国大統領の言動に揺れる国際社会。終わらないウクライナ戦争とイスラエルとガザ地区の戦争。国内に転じれば急激に高騰した米と、そこからあぶり出された日本の食料安全保障と持続的農業の問題。進むデジタル化、AI化……。先の見えない現代社会でヒントとなるものは、もしかしたら日本の歴史に埋もれている思想家の思考ではないだろうか。
前回に続いて、21世紀のグローバル社会に生きる人間の本質を射抜く洞察と、時代を超えたリアリティが息づいている「日本史に埋もれた思想家」の叡智に触れてみる。

目次
■データドリブン・マーケティングの先駆者、山片蟠桃
現代ビジネスにおいては「ヒト」「モノ」「カネ」以上に重要視されている資源が「情報」だ。いかに優れた商品やサービスを開発しようとも、市場の動向や顧客ニーズを的確に把握できなければ、成功はおぼつかない。この本質を誰よりも早く洞察し、実践したのが、江戸時代中期に活躍した経済思想家、山片蟠桃(やまがたばんとう)である。
山片蟠桃(1748~1821)は、大阪の大商家「升屋」に丁稚奉公から身を起こし、その才覚を認められてわずか24歳で番頭(実質的な経営責任者)に抜擢された傑物である。当時の升屋は、全国の諸藩に米を供給する巨大な米問屋であり、そのネットワークは広大であった。升屋が傑出していたのは、尾張や水戸、仙台など名だたる藩の蔵元として、その藩の財政の面倒をみていたことだった。江戸時代も後期になると雄藩でも財政危機に見舞われるケースが増えていった。升屋はこうした藩に出入りし、財政再建を次々と成功させていた。その代表例として語られるのが仙台藩である。仙台藩は表向き62万石の石高だが、実際は100万石以上あったとされ、当時唯一の100万石高を誇る加賀藩と並び立つ雄藩であった。
蟠桃は、仙台藩の無駄を省き、出費を切り詰める一方で領内で穫れる米を、できるだけ各地で売りさばいた。ほかにも領内に新たな仕事を興す手伝いや、生まれた新しい産物を江戸や大阪の大消費地に運んで売った。そうやって藩主の懐を富ませ、貸金と利息で回したのだった。
蟠桃は、日本全国でどのようなニーズがあるかを熟知していた。それによってある地域の特産品を最も欲しがっている地域に的確に送ることができた。いわゆる「産物回し商法」である。また蟠桃は地域が潤うためには「日本各地のそれぞれの特産品を持つべきだ」という考えを持っていた。そのためニーズを見越し、特産品をつくっていた専門家を呼び寄せて、彼らに高い報酬を与えて新たな特産品を生み出させたりしていた。それだけ特産品に詳しくなれば、どれが一級品か否かは判断できる。つまりブランド品を見極めて適切な価格で提供することもできた。
■日本中に巡らせた蟠桃の飛脚情報網
なぜ蟠桃は全国の雄藩の懐中に深く入り込むことができ、各地の産品を最もニーズの高い場所、最もニーズの高まる時期に売りさばくことができたのか。
それは、各地を往来する飛脚たちを独自の「情報網」として活用していたからである。飛脚は当時における郵便物配達員だが、彼らは売買される見本や注文書なども運んでいた。そこに目をつけたのだ。蟠桃は飛脚が店の前を通ると必ず呼び込んで、茶菓を出してさり気なく「いまあなたが運んでいる荷物はなんですか?どこまで運ぶのでしょう?」と訊ねていた。
先を急いでいる飛脚としても茶菓を出されて労われては、断りづらい。
蟠桃は店のなかにいるだけで、日本中の荷物の状況を把握することができたのである。彼は特産品の配送状況のみならず各藩の米の需給バランス、市場の細かな動向に至るまで、リアルタイムで情報を収集・分析することができた。現代におけるマーケットリサーチやサプライチェーン・マネジメントである。
蟠桃にとって、情報とは単なる知識の集積ではなかった。それは「未来を予測し、事業を成功に導くための戦略的資源」だったのである。市場の動向を正確に読み解き、合理的な判断を下すことこそが商売繁盛の鍵であり、情報を制する者が市場を支配するという確信が、彼の実践を支えていた。
データ分析に長けていた蟠桃は、「未来はある程度予測可能である」という強い信念を持っていた。過去から現在に至る情報を徹底的に収集し、それを合理的に分析することで、将来の需要変動や市場のトレンドも読み解けると確信していたのである。この姿勢は、今日のビッグデータ解析やAIを用いた未来予測の基本的な考え方と軌を一にする。

■宇宙の運行は神の意志によるものではなく、自然法則に従っている
蟠桃は商業活動そのものを、社会に不可欠な正当な役割として高く評価していた。彼の主著『夢の代(ゆめのしろ)』では、宇宙の運行は神の意志によるものではなく、自然法則に従っているという合理的な世界観を提示し、その上で商業の自由と、身分を超えた平等を説いた。封建的な身分制度が色濃く残る時代にあって、農民も武士も商人も人間としては本来平等であり、商売もまた社会を豊かにする尊い営みであると喝破したのである。
現代の「自由市場経済」や「機会均等」といった理念とも共鳴する。
江戸時代、情報の伝達手段は現代とは比較にならないほど限られていた。それでも蟠桃は、自ら現場に足を運び、人々から直接情報を聞き出すといった地道な努力を重ねることで、リアルな市場感覚を磨き上げた。生きた知識こそが商売に不可欠であるという彼の教えは、情報技術が高度に発達した現代のビジネスパーソンにとっても、示唆に富んでいる。
■安全保障と経済活性化の両立を説いた、林子平
――トランプ米国大統領の発言が世界を混乱に招いている。彼の言動で世界のパワーバランスが一気に変わる可能性もある。いまや企業は市場の競合や成長性、イノベーションだけに注目して経営をしていればいいという時代ではなくなった。国際情勢の変化と地政学リスクに神経を尖らせながら、数多のデータや情報のなかから的確・適切な情報をつかみ、分析して素早く実行に移すことが求められる。
その前提となるのは、国家の平和と安定である。新たな市場を切り拓こうとするにも、まず自国の安全が保証されない限り、その開拓はままならない。もちろん市場開拓にはリスクがつきものだ。だが現実の確かな状況分析を抜きにして、資本や人財を投入するのは無謀でしかない。
鎖国が続く江戸時代にあってこうした国際社会の現実を、誰よりも早く直視し、具体的な行動を訴えた人物がいた。江戸時代後期に登場した仙台藩の思想家、林子平(はやししへい)(1738~1793)である。高山彦九郎(たかやまひこくろう)、蒲生君平(がもうくんぺい)と共に「寛政の三奇人」に数えられ、その著、『海国兵談』や『三国通覧図説』を通じて、当時の日本が置かれていた地政学的リスクを具体的に指摘し、海防体制の早急な強化と、積極的な海外との通商路の開拓という、一見矛盾するような二つの政策を強く訴えた。
世界のパワーバランスを思慮深く考慮した、現代にも通じる外交の知見である。
■仙台藩で「無禄厄介」となり、蝦夷から長崎まで歩き情報収集した
子平の本名は友直。江戸の幕臣岡村良通の次男として生まれたが、3歳の時に父が浪人となったため、叔父の林従吾(開業医)に預けられた。その後姉のなお(きよ)が仙台藩6代藩主伊達宗村の側室となった縁で、林子平の一族は仙台藩と関わりを持つことになった。宝暦6年(1756)には林子平の兄・林友諒が仙台藩士として150石を与えられ、一家は仙台に移住。ここから子平の活躍が始まる。子平はみずからの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れられなかったことから、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、すなわち禄なしの部屋住み(無禄厄介)となった。禄はないものの、逆に子平はその身軽さを利用して蝦夷から長崎まで日本各地を精力的に遊歴した。とくに江戸や長崎の出島では、オランダ通事や通訳所を訪問して西洋の軍事・地理情報を収集した。

そして子平は天明6年(1786)に全16巻に及ぶ『海国兵談』と関係図を図絵で表した『三国通覧図説』を著す。ここで彼は産業革命後に膨張するヨーロッパ列強に対し、日本沿岸の防備の必要性を具体的に説いたのだった。当時の日本は外交相手を限定した政策をとり続けており、外国からの脅威に対する国民的な意識は低かった。しかし子平は、欧米列強のアジアへの進出といった国際情勢を冷静に分析し、このままではいずれ日本も強大な外圧に晒されることになると、強い危機感をもって警告を発したのである。
子平を『海国兵談』の著作に掻き立てたきっかけは、1771年に日本に来航したポーランド人冒険家モーリツ・ベニョヴスキーが残した書簡だった。この書簡には、ロシア帝国の日本侵略の意図と蝦夷地蚕食の危険について警告が記されており、林子平はロシアの南下政策に強い危機感を抱いたのである。
もともと仙台藩は江戸時代初期には、キリスト教国家の先進技術を見込んで、通商・軍事同盟を図るべく支倉常長を大使とした慶長遣欧使節団を、メキシコやスペイン、ローマに派遣するなど、外交に積極的だった。だが幕府のキリスト教禁止令が発せられるとその方針を変えた。キリスト教者だった大使の常長自身も棄教を余儀なくされ、藩として海外との通商熱は冷めていった。
だが、江戸後期になるとヨーロッパの列強が日本周辺にその姿を現すようになる。子平ら一部の知識人たちは、世界のうねりを感じ取っていったのである。
■藩同士の争いではなく、対外戦への備えを訴える
子平が重視したのが「海防」である。彼は日本を四方を海に囲まれた「海国」と位置づけ、外国勢力の侵入に対抗するためには、近代的な火力を備えた海軍の整備と全国的な沿岸砲台の建設が不可欠であると論じた。『海国兵談』のなかでは、まずオランダ船の装備や構造を紹介し、洋式軍艦の建造と海軍の充実、大砲の改善と沿岸配備の必要性を説いた。とくに首都がある江戸湾の防備の重要性を強調し、江戸湾入口に信頼のおける有力諸侯を配置すべき、と提言している。その上で幕府、そして諸藩の武士は国内での争いではなく、対外戦への備えを強調した。武士による陸上戦闘能力よりも、西洋式の大砲や軍艦による海上防衛力を固めるべきと主張したのだった。また子平の列強の脅威に対する「海防」は、対外的な軍備拡張ではなく、「経済の持続的な発展を保証するための大前提」として捉えていた点が重要である。
子平は国防と経済が表裏一体であり、国家の安全保障が十分に確保されていなければ、商業活動も経済的繁栄も単なる砂上の楼閣に過ぎないと見ていた。
ユニークなのは、子平が「海防」の強化だけでなく、「通商」の重要性も同時に力説していたことだ。彼は西洋諸国の軍事力の基盤には、対外貿易による富の蓄積があると分析していた。四方を海に囲まれた海国であるからこそ、海上交通の利を最大限に活かして経済を活性化させるべきであると考えたのである。子平は経済政策にも明るく、仙台藩の財政問題に取り組んで『富国建議』を提出するなどしている。
さらに現代のグローバルビジネスを展開する企業にとっても、極めて重要な示唆を与える。つまり「市場を世界に広げたければ、まず自らの足元と周囲のリスクに万全の備えをせよ」ということである。
外交交渉をビジネスの「ディール」と同一視し、妥協点を見出すトランプ式においては、リスクを「カード」と言い換えてもいいだろう。
■林子平の理論は幕末に再評価され、発禁が解かれる
子平が評価されるのは、彼の活動が単なる書斎での思弁や評論に終わらなかった点だ。彼は自ら日本各地を歩き、海岸線を測量して詳細な地図を作成し、地理情報を収集し、さらには外国事情に関する文献を渉猟するなど、徹底した実態調査に基づいて具体的な政策提言を行った。
彼の兵学は机上のものではなく、実際の地形や技術的可能性を考慮した実践的なものだった。また水戦(海戦)と砲術を図解し、当時の日本人に馴染みの薄かった海上戦闘の知識を広めた。その実証主義的な姿勢は、現代におけるデータドリブンな戦略立案や、現場感覚に裏打ちされたリアリズムの重要性と深く通じるものがある。
子平がこれほど大胆な思想・実践書を書くことができたのは、同じ仙台藩、しかもほぼ同世代に工藤平助という藩医で優れた経世家がいたことも大きい。子平より歳上の平助は、彼を慕って全国から弟子志願者が訪ねてくるほどの知られた名医だったが、彼をそれ以上に有名にしたのが、当時のロシアの脅威を訴えた『赤蝦夷風説考』だった。赤蝦夷とは当時のロシアの別名で、著書では蝦夷地の防衛とその経営を訴えている。子平は平助の考えをよく知っており、その内容を『海国兵談』に色濃く反映している。
平助の『赤蝦夷風説考』は、当時の幕府老中の田沼意次の目に留まり、以後日本で蝦夷地(北海道)の政策が本格化していくきっかけとなったが、子平の『海国兵談』と『三国通覧図説』は発禁処分となっている。幕府は子平の著作を「奇怪異説」を説いて人心を惑わすものとして禁止し、さらに林子平自身にも蟄居を科したのである。
同じ様に国防の重要性を説いたにもかかわらず、工藤平助とはあまりにも対照的だった。それだけ当時の為政者たちにとっては先進的、かつ衝撃的すぎたのだった。蟄居中、子平はその心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら「六無斎(ろくむさい)」と号し、蟄居状態のまま56歳でその生涯を終えている。
林子平の思想は、後の明治維新における開国政策や富国強兵策にもつながる先駆的な国家戦略思想であった。実際、幕末から明治にかけては、彼の国防論が幕府に評価され、安政3年(1856)に『海国兵談』の再刊を幕府が許可している。そして彼の「海防」論を礎にして東京湾に複数の砲台や見張所などを持つ海堡が築かれている。いかに子平の思想が先進的で実際的であったかがわかる。
子平は自著が必ずや国家の未来に役立つと確信していた。彼は蟄居の令が下っても、自ら黙々と書写本を作っていた。そしてそこからさらに書写本を生むなどして後に伝えられていったのである。
■六百の村々を再興させた不世出の農業コンサルタント、二宮尊徳
米の価格高騰で日本の食、農業の未来が揺れている。食料は国家の基盤で、安全保障の要でもある。農業が疲弊していては、国家の未来はない。持続可能な社会の実現が問われるなか、日本の農業をどう支えていくべきか─。
その現代的な問いにある人物なら、答えられるかもしれない。薪を背負いながらひたすら読書に没頭する少年像で知られる二宮金次郎こと二宮尊徳(にのみやそんとく)である。彼は疲弊した村々を見事に再活性化させ、人々の生活と地域の経営基盤を同時に立て直した不世出の農業コンサルタントである。
二宮尊徳(1787~1856)は、相模国栢山(現在の神奈川県小田原市)に生まれた。もともとは裕福な豪農だったが、洪水で田畑を失い、病弱の父に代わりに熱心に働き、田畑を開墾していった。しかし14 歳で父を失うと、幼い兄弟2人と母を助けるために山で柴を刈り、日没後は家でわらじをつくっては売りさばいていた。学問好きの尊徳は、その合間を惜しんで中国の古典である「論語」や「大学」を読んでいた。尊徳の学問好きは母譲りのようで、農村には珍しく読書好きで学問ができた。尊徳も負けず劣らず学問好きとなり、薪を背負い、歩きながら大好きな「大学」を声を上げて読んでいた。一人、大声を上げて歩きながら読諳する姿に怪しむ人々もいたほどだった。先の薪を背負った少年像はこの頃の尊徳の姿である。

しかしその大好きな母も尊徳が16歳の時にこの世を去った。残された兄弟3人は離散し、尊
徳は伯父の万兵衛のもとに身を寄せることとなった。しかし伯父は尊徳を叱りつけた。尊徳の働き以上に費用をかけて養っている上に、役に立たない学問をわざわざ灯油を費やして行っているというのが理由だった。
尊徳は、泣いて詫びたが、なお一層学問の必要性を感じた。自力で先祖代々の土地を復興させるためには、早く大人になるだけではなく、しっかりと学問を身につけない限り、その実現は難しいと悟ったからだった。
■洪水で不用となった土地に村人が捨てていた苗を拾い集め、1俵の米を収穫
そして取った行動が、菜種の栽培だった。友人からわずか5勺の菜種を借り、荒れ地となった自分の土地に植えたのだ。菜種は翌年になると8升ほどの菜種となった。それを油屋で燈明油に変え、その燈明油で夜間に勉強を続けた。さらに夜に縄をない、筵を織って、それを灯りに覆って外に明かりが漏れないようにして、鶏がなく頃まで読書をし、文字を習得していった。そして朝になれば、山に登って薪を切り、柴を刈って、田畑に入って耕作し、除草した。尊徳はまさに勤勉勤労の鑑であった。尊徳は知恵と工夫と実学的な実践で、困難を乗り越えていった。極度の貧困と苦難の中にいながらも、彼は決して希望を捨てなかった。尊徳はこんなことも試している。酒匂川がまた氾濫した16歳の時、なんとか再興の緒を探そうと考えていた尊徳は、洪水で不用となった土地に村人が捨てていた苗を拾い集め、植えていたところ、1俵の米を収穫することができた。

尊徳はここである法則を知る。それが「積小為大」である。
たとえ小さなものでも、積んで大とするのは自然の道だと。やがて尊徳は、コツコツと貯めたお金で、失った田畑を買い戻していく。尊徳は買い戻した田畑をなんと自分で耕作せずに、小作に出した。その一方自分は小田原城下に出向いて、薪や農作物を売っていた。なぜそうしていたかというと、田畑には年貢がかかるが小規模の農作物の販売や奉公には年貢がかからないからだった。
■借金を重ねる女中に「残った竈の炭」を買い上げると申し出た尊徳
その卓越した知識と実践力は、やがて小田原藩家老であった服部家の耳に入る。服部家の財政再建を託された尊徳は、まず徹底して問題点を調べ上げる。邸の隅々まで調べ、肥溜めの中まで覗き込んだと言われている。
その上で再建計画をつくり、5年計画で借財の返済を任された。尊徳は服部家に奉公人として入る前には、自分の土地などを処分して不退転の決意で門をくぐっている。この時彼は、「別世界に入るのだから後戻りはできない」と表現している。尊徳は服部家再興にまさに命を賭していた。そのため時に約束を果たせない重臣に対しても容赦なく大声で叱責したと言う。
尊徳は常に実学的態度で物事の解決に臨んでいた。実際彼の指示は、実学的でわかりやすく説得力があった。
服部家の奉公中に、尊徳は女中から小遣いの借用を申し込まれる。尊徳がどうやって返すのかと訊ねると、女中は「給金」と答えた。だが給金は親元から借りられており、返す当てはなかった。そこで尊徳は彼女にこんな話をする。
「まず主人から平均量の新薪を請け負う。そして薪を節約しなさい。はじめに鍋の炭を削ぎ落とす。薪の燃やし方は煙を出ないようにし、全部燃やす。薪は3本にして鍋の底に丸く当たるようにする。火は鍋の周りからはみ出ないようにする。また火が消えた後の火力も利用すること。使い切った消し炭も利用すること」
こうした具体的指示を与えた後、尊徳は彼女のもとへ足を運び、実際のやり方を確認している。その時、鍋の炭が消しきれていなかったのを見て、尊徳はこの消し炭を買うことまで申し出ている。女中はその言葉を受けて炭を消し去り、最も効率的な火力で薪を節約することを実現したのだった。そして女中は節約された薪を主人に売ることで、給金以外の収入を得る。この成果を見て、ようやく尊徳は彼女に小遣いを貸したという。
尊徳の理念である「積小為大」を表す代表的事例であり、尊徳の実学の徹底ぶりがわかる。
■「報徳仕法」の4つの行動原理「勤労」「節倹」「分度」「推譲」
こうして尊徳が不退転の決意で臨んだ服部家の再建が計画通り完遂すると、その類稀なる手腕を藩主大久保忠真に認められたのだった。忠真は藩内の分家であった桜町領(現在の栃木県真岡市周辺)の復興という、より大きな課題の解決を尊徳に依頼した。
尊徳はこの復興依頼も見事実現する。その名は各地に轟き、彼は生涯を通じて藩や村、旗本領の再建・改革に関与していく。その数、実に六百数十カ所に及んだ。晩年には何人かの弟子をとっているが、その大半が尊徳自身の手によるものだ。その驚異的な数と確かな成果は、彼を現代の経営コンサルタントや地域再生の専門家と比較しても、何ら遜色なく、むしろその本質的なアプローチと持続可能性においては凌駕するものがあったとさえ言える。
尊徳が農村再興にあたって提唱し、実践した思想・行動原理が「報徳仕法」である。これは要約すれば「万物からの恵み(徳)に、自らの努力と貢献で報いる経済活動と思想体系」である。すなわち、我々人間は、天地自然の恵み、社会からの恩恵、そして祖先から受け継いだものによって生かされているという認識に立ち、その「徳」に対し、自らの勤勉な労働と誠実な行いによって応え、さらにその成果を社会や未来へと還元していくという考え方だ。これは、人間は神より与えられた天職に対して勤勉を尽くして得た財であれば、誠実に使うことは問題ないとする、キリスト教のプロテスタントの理念に通じる部分がある。
報徳仕法は、4つの具体的な行動規範を軸とした、実践的かつ体系的な社会経済運営論である。すなわち「勤労」「節倹(分度を基本とした合理的な倹約)」「分度(ぶんど:収入と身の丈に見合った生活設計と支出管理)」「推譲(すいじょう:分度によって生み出された余剰を、自分のためだけでなく、子孫や地域社会、さらにはより広い公共のために譲り与え、再投資すること)」である。
尊徳は村の再興に取り掛かる際、徹底した検地と家計調査から「分度」を定め、無駄な支出を抑制し、それにより生まれた資金や労働力の余剰を、用水路の整備や新田開発といった共同の「推譲」事業に振り向け、その上で村全体の生産力向上と将来の安定に繋げていった。
■貧困や荒廃、騒動の根本原因を、対話とデータで徹底分析
特徴的なのは、尊徳が農村の立て直しに着手する際には、安易な資金援助や一方的な救済策に頼ることを良しとしなかったことだ。まず彼が行ったのは、村人たち自身に自分たちの村が置かれた厳しい現状を客観的に直視させ、貧困や荒廃、騒動の根本原因がどこにあるのかを、徹底的な対話とデータ(検地や家計簿など)に基づいて分析させることであった。そして積小為大の理念に基づき、「今できることから、小さくとも着実に始めよ」と、具体的な行動計画の立案を促し、村人たちの内発的な自助努力と協調の精神を引き出すことに心血を注いだのだ。
資金の調達と管理、労働力の適正な配分、収益性の高い作物の選定と栽培技術の導入、そして長期的な視点に立った灌漑設備の整備や共有林の管理―まさに現代のプロジェクトマネジメントや事業再生計画にも通じる、緻密かつ合理的な方法論がそこに存在した。
そして特に尊徳が繰り返し強調した「分度と推譲」という一対の考え方は、現代企業が直面する持続可能な経営(サステナビリティ経営)の追求やESG(環境・社会・ガバナンス)投資といったテーマと、本質的な部分で直結している。短期的な利益追求や無理な規模拡大路線を避け、堅実な経営によって得られた収益の一部を、従業員の福祉向上、地域社会への貢献、そして未来を担う次世代の育成のために還元する──。この健全な循環の環を粘り強く回し続けることが、組織の長期的な安定と社会からの揺るぎない信頼を生み出す源泉となるのである。尊徳の教えは、企業の長寿命化や地域社会との共生を目指す多くの日本企業の経営思想の底流に、今なお深く息づいている。
■世界初、農業協同組合を生み出した、大原幽学
江戸時代の農村指導者、農政コンサルタントの実績において、二宮尊徳は傑出している。だが日本には他にも優れた農村指導者、農政コンサルタントはいた。その1人が大原幽学である。尊徳は1787年に生まれて神奈川の小田原で実績を挙げて、その名を知られるようになって1856年に他界したが、幽学は尊徳が生まれた10年後に生まれ、千葉で実績を重ね、1858年に鬼籍に入っている。活躍したエリアも時代もほぼ同じだ。

尊徳が報徳仕法という行動倫理を軸に農村再生を進めたのに対し、幽学は農民1人ひとりの自立と自律を軸に再生を図った。
幽学の活動の中心となったのは、現在の千葉県旭市周辺の、貧困と荒廃に苦しんでいた農村地帯であった。尊徳の生涯六百数十と言われる途方もない数に比べて控えめではあるものの、幽学は自立した共同体組織、すなわち農業協同組合の原形を日本の農村に根付かせた人物として知られる。幽学が農村で確立した農業協同組合は世界初とされている。
■村人一人ひとりが自らを厳しく律し、互いに支え合う幽学式農業再生
幽学は尊徳とは違い、もともと武士だった。若い頃は武士の修行として道場破りをしていたが、あることをきっかけに「武士は武力だけでは生きていけない、学問を修める必要がある」と認識、儒教や神道、仏教などさまざまな学問を修めるために全国各地を廻るようになったのである。やがてそれは独自の「性学(せいがく)」として統合され、旅の途中に出会った近江の禅僧からその性学を広めることを勧められたのである。
幽学は各地で講演をするなかで、現在の旭市の農民から「指導してほしい」と懇願されたのだった。当時、多くの農村は度重なる飢饉や不作、そして重い年貢負担によって疲弊し、共同体としての機能が崩壊寸前にある所も少なくなかった。
尊徳も仕法を進めるにあたって、村人たち自身に、自分たちの村が置かれた厳しい現状を客観的に直視させているが、幽学も同様だった。
彼の特徴は困窮にあえぐ農民たちに対し、「性学」の倫理道徳教育を施し、その上で「先祖株組合(せんぞかぶくみあい)」という相互扶助組織を設立し、農村の再生を図ったことだった。
幽学はまず、村人たちに自分たちの置かれた厳しい現状を冷静に見つめ直させ、問題の根源を共有することから始めた。そして、単に外部からの資金援助に頼るのではなく、「村人一人ひとりが自らを厳しく律し、互いに積極的に支え合う」ための具体的な行動規範と組織システムを創り上げたのである。それが「先祖株組合」であった。
先祖株組合では、村人たちが共同で農地を耕作し、そこから得られた収益をあらかじめ定められたルールに基づいて平等に分配するという、当時としては画期的な仕組みが採用された。現在の農業協同組合の原型である。幽学は個人の利益追求に偏ることを戒め、互いの行動を律し合い、困窮した仲間を助け合うことで、村全体の生活水準を底上げしようとしたのだ。幽学はここで、「倫理なき経済活動は必ず破綻する」という強い信念のもと、「倫理と経済は一体である」という独自の思想を打ち出している。
■「義の上に利を立てる」順位を誤ると共同体は瓦解する
幽学の教えの根幹には、「義(道徳や正義)の上に利(経済的利益)を立てる」という明確な優先順位があった。まず人間としての正しい道、すなわち義理や道徳を第一とし、その土台の上に経済的な成功を築き上げていく。この順番を誤り、利を義よりも優先させてしまえば、たとえ一時的に繁栄を享受できたとしても、必ずやその組織や共同体は内側から瓦解するという強い確信を彼は持っていた。この「倫理経済一体論」とも呼ぶべき思想は、現代のサステナブル経営や、企業が社会と共有できる価値を創造しようとするCSV(Creating Shared Value)の考え方の先駆けとも評価できる。
しかし、そのあまりにも徹底した共同体運営と強い結束力は、最終的に幕府の警戒を招くことになった。「徒党を組んで幕府に反抗しようとしているのではないか」というあらぬ疑いをかけられ、活動を厳しく制限され、幽学は失意のうちに自ら命を絶った。
だが彼が心血を注いで築き上げようとした「共同体を倫理で支え、再生させる」という高潔な思想と、その具体的な実践は、後の時代の地域振興運動や農村改革に影響を与えている。幽学の実践は、倫理的信頼と相互扶助こそが、変化の激しい時代を乗り越えるための、組織のレジリエンス(再起力)であることを物語っている。
■世界に先駆けた万人平等思想と無政府主義。忘れられた思想家、安藤昌益
江戸時代の埋もれた思想家のなかで、最も異質で先鋭的な存在が安藤昌益(あんどうしょうえき)(1703~1762)だろう。実際昌益は“埋もれていた”。彼の主著『自然真営道(しぜんしんえいどう)』は明治32年(1899)に後に京都帝国大学文科大学長を務めた狩野亨吉によって再発見され、その革新的思想が知られるようになった。しかしながら、その全貌は広く知られるには至らなかった。昌益の全貌に光を当てたのは、第二次大戦後に『忘れられた思想家─安藤昌益のこと』を著したカナダの外交官であり歴史家でもあったエドガートン・ハーバート・ノーマンであった。ノーマンは昌益の透徹した思索と日本社会を解剖する能力を高く評価し、昌益の名を国際社会へ広めたのだった。

昌益の再登場は衝撃を与えた。彼は300年以上前に、当時の身分社会を痛烈に批判し、かつ現在、世界中の人々が最も力を注ぐべき持続可能な社会の実現に向けた原理を、先鋭的な形で突きつけたからだ。
安藤昌益は、東北の出羽国秋田郡二井田村(現在の秋田県大館市)の豪農の家に生まれた。聡明だった彼は若年期には京都に出て禅を学び、その後、医師・味岡三伯のもとで医学を修めている。そして1744年から1758年までの約14年間、陸奥国八戸(現在の青森県八戸市)で医師として活動している。『自然真営道』はこの八戸時代に著された101巻93冊から成る手稿の大著(稿本)であるが、関東大震災の時に所蔵していた東京大学の図書館が火災に見舞われ、大半を焼失してしまった。現在残っているのは稿本の十数巻と、木版で印刷された刊本と呼ばれる3巻3冊である。そのためその全容については不明なところが多い。それでも封建社会、支配階級、既成イデオロギーに対する痛烈な批判、そして彼の理想とする「自然世」の具体的な構想など、ラディカルな思想が十分理解できる。
刊本は、稿本をまとめたものとされ、1753年に江戸と京都の版元の連名で出版されているが、その内容は、自然哲学、医学原理、既存医学批判に重点が置かれ、稿本にある身分社会への批判などは意図的に抜かれたマイルドなものとなっていたが、それでも発刊されるやいなや発禁処分となっている。


■理想社会は支配層が「盗食」する「法世」ではなく、万人が直耕する「自然世」
昌益の思想は、江戸時代の思想家のいずれにも見られないラディカルさを持っていた。その主張はこうである。
人間は本来自然の一部であり、自然の循環の中で調和して生きるべきで、そのためには全ての人間が自らの手で農業に従事する「直耕社会」が理想である。全ての人が平等に生きる直耕社会は「自然世(しぜんのよ)」であり、対して当時の封建社会は「法世(ほうのよ)」である。法世は人為的につくられた不自然な世で、支配者層が自ら生産労働をせずに搾取する「盗食(とうしょく)」しているため貧困や飢饉が生じるのだ、と。
彼は、農業こそが人間の最も基本的かつ尊い営みであると位置づけ、聖徳太子、豊臣秀吉、徳川家康といった歴史上の権力者を引き合いに出し、武士階級などの支配構造が生み出す社会の不平等を厳しく断罪した。また仏教や儒教が人々を支配する道具として利用されていると批判している。その思想は無政府主義、共産主義、社会主義の原型として世界中の研究者から注目されたのだった。
■ルソーより先に自然状態における人間の平等と自由を論じた昌益
特筆すべきは、昌益が西洋の啓蒙思想家たちに先んじて、独自に人間平等の思想に到達していた点である。例えば、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』において自然状態における人間の平等と自由を論じたのは1762年であり、これは奇しくも昌益が没した年と一致する。江戸時代、人間のあるべき姿を論じた思想家はほかにいたが、儒教や仏教などの既存の思想体系も厳しく批判し、江戸時代の幕藩体制や身分制度を明確に否定したのは唯一昌益だけである。
昌益がどのような思考をたどって、この思想にたどり着いたかは不明だ。だがすべての人々が農業に従事する直耕社会を構想した背景には、しばしば奥羽地方を襲った飢饉があったとされる。とりわけ八戸一帯で頻発した「猪飢渇(いのししけがじ)」と呼ばれる飢饉では、大豆生産のための焼畑農業が繰り返されたことで猪が大発生し、多くの農民が餓死していた。またこの頃から関東から東北にかけては、十分な食料が確保できない農家では間引きが行われるようになったとされる。これらの事態は昌益の目には為政者である武士階級の明らかな失政と映った。しかも武士たちからは、なんら犠牲者が出ていない。同じ生命を預かる医者として、この命の不平等をなんとかできないかと考え、思考を深めていったことは想像に難くない。
■量子論的世界を照らす、昌益の「互性」
昌益の独想はさらに「互性」という概念も生んでいる。
自然真営道では互性を次のように表現している。
「天と海とは互性、日と月は互性、男と女は互性、善と悪とで一物、邪と正とで一事、是と非で一理、表と裏とで一般、生と死とで一道…いっさいの二つの差別と見えるものは、つまびらかにこれを見れば、一つの真営の進退なのである。」
つまり、世界に存在する対立するもの同士は、実は互いに支え合う関係(互性)にあり、それぞれが独立して存在するのではなく、一体となって世界を構成しているというものだ。
これはまさに現代の量子論の基本となる「量子もつれ」を言い当てている。量子論では、量子は必ず対となっているが、1つの量子が観察によってその位置が特定されると、その瞬間にもう1つの量子の位置が定まるというものである。逆にいずれかが観察されない限り、その片方も特定されない。また昌益のこの互性における思考法は、西洋哲学におけるヘーゲル的弁証法に近いともされる。もちろん昌益が弁証法を知っていたわけでも、現代の最先端物理学である量子論を構想したわけでもない。だがまるで巨石を穿つような透徹性と熱量で世の中の矛盾、森羅万象の原理に挑む昌益の姿勢が、こうした現代につながる真理や思弁に繋がったと考えられる。
■エコロジストの先駆者として評価
昌益はさらにエコロジストの先駆者としても評価されている。直耕の前提となる「人間も自然の一部であり、自然の循環の中で調和して生きるべき」という考えは、いわゆる「ガイア理論」の原型でもある。彼はこうした直耕で生み出される生産物の「余剰」をも排している。必要なもの以上に自然から奪うことが、飢餓や貧困を生み出すと考えていたからである。
眼の前で次々と無辜の命が奪われる姿に激しい怒りを覚え、万人が耕し、万人が等しく生きる理想社会を説いた安藤昌益。その実現は非現実に映るが、昌益が捉えた為政者の失策が多くの国民を貧困に陥れる構図は、令和の現代でも進行している現実である。生成AIの急激な進化により、まさに人間の「労働」のあり方そのものが大きく揺らいでいる。ベーシックインカムのような議論もなされる現代において、その根底にある自然との共生、搾取なき社会への渇望は、重く鋭い問いを投げかけている。
いかがだっただろうか。江戸時代という極めて封建的な時代にあって、西洋の思想家ですら思いつかなかったような開明的な思想を生み出した傑人がいたのである。こうした傑人は日本にはまだまだ存在するし、地方にこそ埋もれている可能性は高い。混迷するグローバル社会の解決策は、この時代の“埋もれた”、“忘れられた” 傑人たちが持っているかもしれない。
参考
【書籍】●『現代ビジネスに活かす 江戸商人の知恵』島武史[パテント社]●『「がく」と「しゅう」 江戸時代の思想家、安藤昌益をめぐる物語』江森葉子[文芸社]●『危険な思想 狩野良吉と安藤昌益』庄司進[無名舎出版]●『現代語で読む 林子平の海國兵談』家村和幸[並木書房]
【論文】●「日本のエコロジズムと教育―(1)安藤昌益と思想」西村俊一●「大原幽学の『自然』観について」小林等
【WEB】●「100 年企業戦略ONLINE」●「大原幽学記念館」●歴史人物学習館 ●世界の歴史マップ ●第二海堡 ●仙台市博物館 ●東京新聞「『助け合う』教え、連綿と協同組合の先駆け 江戸時代の「先生」大原幽学 旭市」●モノコト・感性研Q 所 ● NTT 東日本 ●千葉県旭市「農村を救った知の侍 大原幽学」(YouTube)ほか
POINT
■ データドリブン・マーケティングの先駆者、山片蟠桃
■ 日本中に巡らせた蟠桃の飛脚情報網
■ 宇宙の運行は神の意志によるものではなく、自然法則に従っている
■ 安全保障と経済活性化の両立を説いた、林子平
■ 林子平の理論は幕末に再評価され、発禁が解かれる
■ 六百の村々を再興させた不世出の農業コンサルタント、二宮尊徳
■「 報徳仕法」の4つの行動原理「勤労」「節倹」「分度」「推譲」
■ 捨てられた苗から米一俵を生み出し、「積小為大」を悟る
■ 世界初、農業協同組合を生み出した、大原幽学
■ 量子論的世界を照らす、幽学の「互性」
■ 村人一人ひとりが自らを厳しく律し、互いに支え合う幽学式農業再生
■「 義の上に利を立てる」順位を誤ると共同体は瓦解する
■ 世界に先駆けた万人平等思想と無政府主義。忘れられた思想家、安藤昌益
■ ルソーより先に自然状態における人間の平等と自由を論じた昌益
■ 理想社会は支配層が「盗食」する「法世」ではなく、万人が直耕する「自然世」
■ 量子論的世界を照らす、昌益の「互性」
■ エコロジストの先駆者、昌益
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