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1000年を見据える「千年持続学」から学ぶ 21世紀型資本主義・経営

共有型資本主義、 シェアリングエコノミーの台頭

 21世紀に入ってから、世界経済の基調が変わりつつある。国家間、あるいは宗教間の摩擦や軋轢が熱を帯びる一方で、資本主義の終焉を唱える声も大きくなってきている。とりわけ日本は世界のどの国家も体験したことのない人口自然減少社会となり、すべてが未体験ゾーンに入る。これまでにない資本主義のあり方が問われている。

 たとえば、急速広がりをみせるのがシェアリングエコノミーという考え方だ。新たなものを購入してその効用を期待するのではなく、自動車や家などすでにあるもの、誰かが所有しているものを複数の人間が利用し合うことで、その効用を享受するという考え方だ。「エアビー・アンド・ビー」や「ウーバー」、「メルカリ」など、さまざまなビジネスが動いている。

 こうしたビジネス、すなわちシェアリングエコノミーのきっかけとなった事象の1つがリーマンショックだと言われる。

 一国で起こった金融商品の焦げ付きが、世界の金融市場を収縮させ、あらゆる企業、あらゆる国家の運営を根幹から揺るがした。実態以上の収入や値上がり価格を不動産につけ、じゃぶじゃぶと貸し付けた結果、貸し付けられた庶民の返済が焦げ付き、多くの人が家を手放し、自己破産を招いた。

 この、「資本主義下の合理的な人間は”常に上のライフスタイルを目指”し、より良いものを所有する」という原則に大きな疑問符がついたのがリーマンショックであり、その後のシェアリングエコノミー発展のきっかけとなったと言われる。

 いま世界経済が問われているのは、新たな成長産業を創出することや保護主義経済にどう立ち向かうかという経済政策にとどまらない。どういう経済、どういう社会理念を構築するかが問われている。もっといえば20世紀型の資本主義経済からいかに脱出するかが問われる。

 常に高い成長を求める国家GDP主義や、高リターンを求める投資家集団の台頭。貯蓄から投資へのマネーゲームに取り込まれ、翻弄される一般消費者。実態経済をはるかに超えて膨張し続けるマネー。その水膨れしたマネーによって引き起こされる資源獲得競争。速度を上げて進む温暖化。それらに伴って引き起こされる紛争や弾圧、テロ、貧困、失われる命の数々。
すでに20世紀後半から、現在の資本主義経済の在り方を問う声は出ていた。古くは1972年に出された「ローマクラブ」の報告書「成長の限界」である。人口増加や環境破壊が続けば、人類は100年で成長の限界を迎えるとする。

 ローマクラブはさらに1992年に「限界を超えて―生きるための選択」、2002年に「人類の選択」と、警鐘を鳴らし続けている。もちろんこの警鐘や分析には産業界を中心に批判も出ている。

 ただ地球という物理的な空間で、養える人口は限られることは容易に想像でき、従来型の拡大消費、拡大生産、経済成長を求める限りはその限界が訪れることは避けられない。企業は明らかに矛盾した経営を余儀なくされている。高い理念やビジョンの実現をうたいながらも、時価会計主義のもと高まる株主からの圧力に、四半期ごとの利益や株価を気にしながらのマネジメントを行わざるを得ない状況にあった。長期展望より短期の経営が優先されてきたといっていい。

サステイナブルと民主主義の原点「イロコイ族」

 こうした考えに対して出されてきた思想が、持続可能な=サステイナブルな経営である。

 サステイナブルという言葉自体は目新しい言葉ではない。この言葉が世界的に認知されたのは1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された地球サミットにおいてである。四半世紀以上も前のことだ。ここでは悪化する地球環境に対して世界各国首脳がはじめて手を結び、その打開策を探ったのであった。その結果さまざまな宣言が出されたが、その根本にある考え方は、現在生きている世代が、将来の世代の利益を損なわない範囲で環境を利用していこうというものだった。

 将来の世代とはいったいどのくらい先をいうのだろうか。1世代およそ30年か。あるいは3世代100年だろうか。

 ひとつのモデルがある。

 北アメリカの先住民であるイロコイ族。イロコイ族とは一つの部族ではなく、オノガンダ族、カユーガ族、モホーク族、セネカ族、オネイダ族の総称である。彼らが重要な事項を決定する際は、全員が納得するまで話し合う。そこで彼らが何より優先して考えなければならないことは、現世代のことではなく、7世代先の子孫のことであるという。これから生まれ来る世代が、自分たちより悪い環境で暮らすことがないよう、心を配り、決定を下す。

 イロコイ族のこうしたやり方は民主主義の一つの原点とされ、アメリカ建国のきっかけを与えたとされる。そしてこのやり方は1000年以上にわたって、いまなお続けられている。

アメリカインディアン・イロコイ族について書かれた「アシハヤ」

 悠久の歴史を紐とくと、世界には数多くの先人たちが、はるか後に生まれてくる子孫を慮ったシステムや構造物を生み出し、いまなお機能しているケースが多い。
 たとえば中国の四川省にある都江堰(とこうぜき)は、2300年もの長きにわたって、四川盆地に灌漑用水を供給し続けている。日本では山梨県富士川にある武田信玄が建てた信玄堤は、400年以上も山梨県の甲府盆地に住む人々を水害から守っている。

イロコイ族の思想を経営に取り入れたパタゴニア

 こうした手続きや思想を現代に持ち込むことは難しいかもしれない。だが積極的に取り入れている企業が存在することも確かだ。アメリカに本社を置く、スポーツアウトドアメーカーの「パタゴニア」はその代表だ。

 1965年に創業し、急成長を遂げたパタゴニアは、80年代経営危機を迎える。創業者のイヴォン・シュイナード氏はこの時、イロコイ族のこの思想に出会い、これを経営理念に採用したのである。

 パタゴニアでは社員が行きたいと思えば、いつだってサーフィンに行ける環境を持っている。これは社員一人ひとりが自立し、責任感を持っているからである。同時にいつでも最高の波が来た時に動ける融通性を持っていることと、他の仲間と協調性を持っていることが前提となる。イロコイ族が徹底した話し合いで全員が納得しない限り進めないというルールを共有しているのは、互いに個として尊重しあう文化を持っているからである。

イロコイ族の考えを経営理念に導入したパタゴニアの経営物語「社員をサーフィンに行かせよう」

 日本でもこうした考えを持つ企業はある。47期連続増収増益を続けた「年輪経営」を掲げる長野の伊那食品工業や、室町時代から続く和菓子の虎屋といった老舗企業にも、世代を超えたサステイナブルな経営指針が反映されており、自律した社員の姿が見て取れる。

 ただ、だからと言って、どの企業もこうしたサステイナブルな経営哲学やそれに基づいた実践を行えるとは限らない。

 多くの老舗企業はこれまで、数多くの経営危機を乗り越えながら、こうした経営哲学を体得してきた経緯があり、また7世代先の経営を掲げたパタゴニアも、そのタイムスパンからすればまだ駆け出しのベンチャーに近い。

 それゆえ現在の組織人に求められているのは、持続的な社会を明確な意思と意図をもって創り出す思考法である。
 その1つが「千年持続学」である。

サステイナブルな取り組みのヒントを与える「千年持続学」

 千年持続学は、2001年に行われた文部科学省の委託調査の報告書をベースにした日本発の未来学である。

 千年持続学では、1000年というスケールを軸にすれば、何単位か有史をさかのぼることで、人々が何を考え、どのように行動してきたかを知ることが可能となるとする。

 日本で1000年前と言えば、まさに源氏物語が誕生した平安時代。
ヨーロッパでは十字軍が遠征を繰り返し、交易圏を広げていた。中国では宋が勢力を弱めていく時代である。

 たとえ産業や暮らし方、文明も違う時代であっても、人が何かの意図をもって自然に働きかけ、現在と同様に喜びや悲しみを感じながら営みを続けていたことは推察できる。こうして人類の来し方をたどる一方で、1000年後に思いを馳せ、社会の持続性をそこまで到達させる方法をさぐる。それが千年持続学である。

 では1000年持続させる上でのポ イントとなるファクターはいったい何なのであろうか。

サステイナブルとエネルギー

 一つはやはりエネルギーである。
代表的化石燃料である石油は、20世紀の物質文明を支えてきた。20世紀は洋の東西南北を問わずまさに石油文明社会であった。

 石油に関しては20世紀後半からその埋蔵量が約40 ~ 50年分で推移 し続けた。このため一部の識者からは、石油は枯渇しないとの意見も上がっている。これは石油の埋蔵試算が現在確認されている埋蔵量ベースでの計算であるため、その後発掘されるとその寿命が延びることが背景にある。また発見された油田でもその100%を回収できるとは限らない。どれだけ採れるかは技術とコストとの兼ね合いにもよる。油田は地下水のように脈々と存在してるわけではなく、時間を経るにしたがって、砂や礫にまじった石油(オイルサンド)から回収することになるため、コストや技術が見合わなくなれば廃田とする。したがって廃田にはまだ石油を含んだオイルサンドが残っており、その埋蔵率は7割という説もある。

 だが1000年というスケールを想定した場合、石油がまったく枯渇しないまでも、現在のように手軽に利用できるものではなくなる。何より各国の産業成長エンジンである石油は、たやすく投機マネーの対象になりうるのであり、これをエネルギーや産業の頼みとすることは、常に経営の根幹を揺るがし続ける。

 一方生産量が増加している天然ガスもその曲線を見る限り、2030年あたりにピークを迎え、2100年にはその生産量はゼロの地平に沈みこむ。

 これに対して石炭は現状300年ほどの埋蔵量がある。ただ石油に比べ採掘コストが高く、また採掘可能量が高くても、有限であることに変わりはない。

 もとよりこうした化石エネルギーを消費すればするほど、温暖化が加速することは自明であり、これら化石エネルギーが消費さることで、大気中の二酸化炭素が現在の2倍から3倍になるとの予測が立っている。

 サステイナブルな社会を実現していくためには、この化石エネルギーから持続可能な再生可能エネルギー源に変えていくことは論をまたないだろう。再生可能エネルギーには、太陽光発電、太陽熱利用、風力発電、バイオマスエネルギー、 地熱発電、地中熱利用、燃料電池、あるいは雪などが挙げられてくる。

 以前はここに原子力を挙げるこ ともあったが、2011年3月12の事故以来、そのコストや安全性が幻想であったことが証明され(一部の原発マネーの恩恵を受ける関係者や知識人は反発しているが)、その選択肢はない。実際3月12日以降、日本のみならず世界中で再生可能エネルギーが急伸し、いまや電力の一次エネルギーは太陽光発電、風力発電それぞれで原子力発電を抜き去っている(2017年<環境エネルギー政策研究所>)。

 また技術進化により従来にはなかった振動や小さな水量、植物の成長に伴う化学変化、工場の排熱、音などを利用した発電も可能になっている。

 現実レベルではコストが最大のネックとして挙がってこようが、普及が進めば、コストが下がるのは経済の常識。従って重要なことは数を現実化させる技術力と仕組みである。

 さまざまな次世代エネルギーが 開発されるのは喜ぶべきことだ。ただあまりに多様化すると、互いのつぶし合いになり、優良な技術や商品が消える可能性もある。そこで技術と技術をブリッジし統合する技術とそれをコーディネートしプロデュースする人材と仕組みが必要となる。すでに太陽熱と電気、あるいは燃料電池と電気のコジェネレーションシステムなどが誕生しているが、さらにまだ未 利用に近い地中熱、木質バイオマスなど柔軟な組み合わせが求められてくる。

飲料水より、生活用水より、仮想水が問題だ!

 千年持続学でもうひとつ注視しているのは水である。水は人間の生命に密接に関わる最重要資源である。飲み水だけでなく、生活用水、農業用水、工業用水として幅広く利用されている。

 ゆえに、人口増加や水質悪化などにより、水資源が不足すれば、食料やエネルギーの生産消費に大きな影響を与える。

 千年持続学の試算によれば、現在の南北格差をそのままとして、ダムなどの社会基盤整備で水資源を開発していけば、現在のライフスタイルを崩さずに85億の人口を養うことも可能だとしている。

 しかし、現状11億人が日々安全性に欠ける水を口にしており、飢餓や非衛生状態に置かれた人の生活レベルは改善されないままとなる。加えて、新興国の経済発展に伴いその獲得競争が激化している。

 一人の人間にいったいどれくらいの水が必要とされるかをはじき出すことは難しい。人間が必要とする飲み水は1日2リットル程度であり、従って年間で1m3あれば十分となる。だが、日本人の生活用水となるとその100倍となる。風呂、炊事、洗濯、トイレなどが主な用途だが、ほとんどが洗浄に使われている。

 水資源の問題で近年クローズアップされているのが、仮想水である。仮想水とは食品や農産物の形となるまで使われた水のことである。精米後の水1kgをつくるのに約8トンの水が要るとされる。また小麦粉1kgを得るのに4トンの水が使われる。こうした農産物の成長に使われる水を指す。穀物はさらに畜産の飼料となる。一般にこうした飼料は鶏では体重の4倍、豚が7倍、牛が11倍かかるとされる。 つまりこうした肉が輸入されているということは、形を変えて大量の水が輸入されていることになる。日本の場合、こうした間接的な水資源の消費量は、年間400 ~ 500億m3とされ、直接的な農業用水の使用量600億m3と合わせ、一人あたり年間1000m3を消費している計算となる。本来十分とされる飲料水量の1000倍の水が知らない間に消費されている。人類がこれから1000年先まで、十分な生活を確保していくためには、質の良い水資源を確保していくと同時に、こうした隠れた仮想水の使用をいかに減ら してくかという視点も必要となる。

 水は代表的な循環資源である。
何度でも再生が可能だ。しかし利用できる場所は偏在しており、その差は貧富格差の広がりを助長している。

 1960年代に遺伝子技術、育種技術の高まりでアジアを中心に緑の革命が起こり、単位当たりの穀物の収量は上がった。だがこのための灌漑や肥料、農薬の投入で土壌は劣化し、水資源が枯渇し、さらに森林資源も枯渇するなど、持続可能な未来からははからずも遠のいていった。

新しい価値創造の哲学「バイオリージョン」

 このように人間が生きていく上では環境にある資源を消費することは避けられない。それゆえ、持続可能な社会、システムを見出していくには、環境負荷を低減する、資源枯渇に対応するといった課題対応型のソリューションでは十全ではない。環境対応をコストではなく、価値創造の大きなエンジンとして捉えていく必要がある。

 その哲学として注目されているのが、「バイオリージョン」という考え方だ。バイオリージョンとは生命地域主義と呼ばれるもので、端的に言えば、地域に根差したエコロジーとエコノミーの両立概念である。その根源には地域の再定住「リインハビテーション」という視点がある。

 つまり地域に住んでいる住民が住んでいる地域に根付き、その上でその地域と改めて一体化することである。そのためには地域が持つ、気候、地形、水系、土壌、微生物、動植物、資源などを最大限に有効活用していくことが求められる。そして人間も有用な地域資源の一部として捉えなおし、地域に蓄積された歴史、文化、風土、技術、人材といった社会資本を積極的に活用していく。

 今ある環境や人的資源や文化や社会を生み出してきた背景を一度客観視化して、見つめ直し、その良さを引き出していくのだ。その場合、これまでのような価値観からいかに抜け出せるかがポイントになる。

独自の木質ペレットストーブを生み出し1000台以上も売った岩手県

 すでにバイオリージョンという視点に立ったプロジェクトは内外で展開されている。

 平昌冬季オリンピックのカーリングチームのふるさと北海道北見市。市内にある「オホーツクビール」は「市民による市民のためのビールづくり」を掲げて、販路を北見市だけに限定。地元農家の大麦を使い、製造過程からできるビール糟を地元の酪農家に卸している。そこでできた肉からウインナーやソーセージをつくり、その糞は提携している農家にわたされ、原料となる大麦を育てている。
友の会を組織し、品評会に招くなど、組織運営に大きな影響を与えている。

 一方、岩手県では京都議定書が採択された翌年に国のCO2削減目標を上回る8%を掲げ、環境首都に取り組む。太陽光や風力発電、バイオマスなどのさまざまな再生可能エネルギー産業を育成している。とりわけ優れているのは、木質バイオマス産業。県と民間、大学、研究機関からなる木質バイオマス研究会を立ちあげ、官民でその促進を図った。

岩手県が独自に開発した「いわて型ペレットストーブ」。FF式灯油ストーブを超えるパフォーマンスがあり、自動消火、温度調節など先端技術ももりこんでいる。

 灯油のFF式ストーブよりコストパフォーマンスに優れた岩手型といわれる木質ペレットストーブを独自に開発し、県内1000戸以上に販売しているほか、全国にも広がっている。また水分を含んだ木材チップも燃やせる岩手型木材チップボイラーも開発し、これも県内外の大型事業施設で採用されている。岩手ではストーブやボイラー燃料となる木質チップやペレットのニーズの高まりにより、新たな流通産業や雇用が生まれ、疲弊していた林業にも活気が出てきた。

柔軟で横断的な組織づくりがサステイナブル経営の奥儀

 木質バイオマス研究会の創設者の遠藤保仁氏は、「今ある林業をどうするかではなく、これまで守ってきた自然を生かしながら、いかに地域の暮らしを守っていくか、豊かにしていくかを考えた」という。

 「林業を守っていくことは、水をどうするかという問題であり、農業をどうするか、食糧をどうするか、地域をどうするかにつながっていく。その認識を県の人々が共有できたことが大きい。だから岩手はうまくいっているが、これが必ずしも他の地域でうまくいくとは限らない。それぞれ地域にあった考え方をすればいい」

 さらに岩手の例で加えるなら、組織が横断的で柔軟であったことが挙げられる。

 岩手木質バイオマス研究会は、岩手県の林業家や学者を中心に立ち上がったが、その会員の4割は県外在住者である。

 技術が細分化されている現代においては、持続可能な社会、組織運営をおこなっていくためには、一つの企業や組織でできることは限られてしまう。組織の人や技術を囲い込むのではなく、従来の枠を超えて、自在につながり、インテグレートしていく発想の仕組みづくり、人材づくりこそが大きなカギを握ってくる。


POINT

  • 地域のあらゆる資源を見つめ直すこと
  • 過去1000年、これからの1000年を思い描くこと
  • 再生可能エネルギーの利用になんらかの形でコミットし、その実現・導入を図る
  • 業界以外の経験、知識体系をもった人々と交流する
  • 強くしなやかな個を育てる

【new comer & 考察】皮ごと食べられる国産バナナの開発で、かつての高級フルーツが再び熱視線

 意外だが日本で最も食べられているのがバナナだ。そのバナナが熱い。
バナナと言えばかつては高級フルーツの代表で、年配者なら病気の時ぐらいしか食べられなかったのではないだろうか。いまやどこのスーパー、コンビニでも見かける日本人に馴染み深い、いわば国民的フルーツと言える存在だ。

 バナナはフィリピン産や台湾産が知られるが、日本輸入されるバナナはフィリピン産とエクアドル産で95%を占め、うちフィリピン産は75%と圧倒的。世界に目を転じるとインドが最も多くバナナを生産し、次が中国、インドネシア、フィリピン、ブラジルの順となる。これらバナナ産地は「バナナベルト」といわれ、赤道から緯度がプラスマイナス30%のゾーンに収まっている。

 いずれも年中温暖で、降雨量が安定して豊富で台風の通り道でないことが条件になる。しかしこの常識を覆る産地が登場した。日本の岡山県だ。

 岡山県にある農業法人D&Tファームが国産初のバナナ「もんげーバナナ」を開発した。もんげーとは、岡山県の方言で「すごい」という意味だ。確かに熱帯、亜熱帯産の高級フルーツであったバナナが日本国内でつくれるとなれば、「もんげー」である。

 なにより、もんげーバナナは一般的バナナと違い、皮ごと食べられるのが特長。さらに一般的なバナナの糖度が13〜18度であるのに対して、もんげーバナナは25〜27度とかなり甘い。食感もクリーミーで、豊かな香りがある。ほかのバナナに比べても特長が際立っている。

 なぜ岡山でバナナかというと、単にD&Tファームの創業者の田中節三さんの執念というしかない。田中さんは高級フルーツの代表であったバナナを「なんとかお腹いっぱい食べたい」との思いから、自宅の庭で栽培と品種改良の研究を40年間続けて、実現した。

 田中さんが「お腹いっぱい食べたい」と思ったバナナは「グロスミッシェル」とう品種で、もんげーバナナもこの品種に属している。現在スーパーでよく目にしているのは「ジャイアントキャビンディッシュ」という種類で、世界的にも輸出バナナの主流となっている。田中さんの憧れたグロスミッシェルは実は1950〜60年代に中米を中心に広がったパナマ病で打撃を受けて、市場から姿を決した経緯がある。

 往年の甘いバナナの味を覚えていた年配の人にとっては、まさに憧れの味、バナナ通では幻の味を再現・具現化してくれた 恩人とも言えるだろう。

 現在、もんげーバナナは、一部の高級フルーツ店や百貨店などで扱われているが、まだ販売量が少ない。そのため、生産地の拡大にも取り組んでおり、現在岡山県内のほか広島、鹿児島で生産が開始、それぞれ「神バナナ」「ともいきバナナ」として販売されている。またこれらの県のほか、福岡、大分、熊本、宮崎などの九州各県、兵庫、三重、千葉などのほか青森、北海道でも生産準備が進められている。

 ちなみにバナナの品種は世界で300種ほどあるとされ、日本ではほかに生食ではモンキーバナナとも呼ばれる「セニョリータ」、皮が赤紫でさつまいもにも似た「モラード」といった品種が出回っている。

 また料理用では「サバ」と呼ばれる青緑のバナナ、「ツンドク」と呼ばれる大型なバナナなどがある。

 ドリアンやマンゴーなどフルーツ王を巡る争いが、再び熱くなってきたようだ。

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