CONTENTS 記事・コラム 詳細
  • ビジネスシンカー

サスティナブルな現代に求められるパワーファミリー企業、飛躍の知恵

 世界には個人の名前、あるいは兄弟、一族の名を冠した大企業がたくさんある。いわゆるファミリー企業だ。日本は世界でもっとも老舗の多い国だが、その多くが同族経営だ。同族経営については批判的な声もあるが、おしなべて長寿でかつ利益率が高いことで知られる。つまりサスティナブル企業であるのだ。そのなかでも世界的なブランドや大企業となったパワーファミリー企業には、一族や個人が強烈な個性と信念をもって事業にあたった例が多い。事業の持続可能性が求められる現代。パワーファミリー企業の飛躍の知恵を学んでみる。

1代で総資産
約35兆円の財閥を築いた
ジョン・D・ロックフェラー

 世界的企業の経営者と言えば、GAFAMと言われるメガIT企業、あるいはテスラやNVIDIAのような急成長を遂げるスーパーベンチャーのトップが思い浮かぶだろう。だが少し前であれば、ロックフェラーが必ず入ってきた。
 石油会社スタンダード・オイル社を創業し、多くの石油関連事業を傘下に納め、また多くの慈善事業を行ったジョン・D・ロックフェラーと、シティグループの創業者である弟のウィリアム・ロックフェラー兄弟から始まったファミリー企業は世界的な財閥を築き、英国のロスチャイルド財閥と双璧を成している。ジョン・D・ロックフェラーは、97歳で往生するまでに現在の資産にして約35兆円を築いたとも言われている。彼が一代でそれほどの富を築きあげることができたのは、石油という富の鉱脈を見出す運に恵まれていたこともあるが、その性格や思考法が厳格で用心深いことが大きい。そしてそれは幼少期の環境に由来していた。

狡猾で女癖の悪い父親にしつけられた
ジョン・D・ロックフェラー

 ジョンの父親であるウィリアムは女癖が悪く、行商でその日暮らしをしていた。ウィリアムは幼少のジョンに対しても、機会があれば騙したり取引をしたりした。必要なら叩くことも辞さなかった。曰く、「息子を抜け目ない男に育てたかった」とのこと。
 そんな父は結局、ジョンと母親を置いて、家族のもとを去っていく。ただ良心の呵責があったのか、別れ際にジョンらに家を新築する。ウィリアムは8人の建築家に見積もりをさせた上で、建設現場に通い詰めて細かい指示を出していた。完成した時には注文の多いウィリアムのせいで業者に儲けはなく、持ち出しが出たほどだった。
 ジョンは完成した家に当然無料で住めると思ったのだが、なんと子どもたちに家賃を請求したのだ。父親はどこまでも抜け目のない人間だった。
 父親の教訓は強烈だった。この件でジョンは父親に家父長としての恩義を感じる必要もなくなり、自由にビジネスに取り組むことができるようになった。
 青年時代のジョンの夢は10万ドルを蓄財することと、100歳まで生きることだった。16歳となったジョンは日給50セントで書店の帳簿係に雇われた。几帳面で抜け目なさを身につけていたジョンの勤務態度はたちまち店主の目に止まり、責任ある地位が与えられた。しかしその地位に見合う給与が支払われていないと思ったジョンは書店を辞め、それまで貯めた資金を元手に独立し、モーリス・クラークと卸売業を始める。
 独立資金は自分の稼ぎだけでは足りず、ジョンは父親から借金する。利率は年利10%で相場より高いものだった。それでも自ら事業を運営できることにこの上ない喜びを感じたのだった。
 ジョンとクラークの事業は、肉や野菜、塩、水、穀物などあらゆるものを商った。ジョンは金儲けを急がずに、忍耐強く綿密で、強引ではなく、ずる賢く立ち回ることもしなかっため、ビジネスは順調に伸びていった。

教会で出会った事業パートナー

 ジョンが幸運だったのは、石油と出会ったことだった。それも割と近所で。しかもまだそれがどのようなものに使われるのか、十分知られていない時にだった。
 1856年にダートマス大学のビッセルという学生が、イェール大学の専門教授に石油のサンプルの分析を依頼すると、様々な有用成分を含んでいることがわかった。当時まだ石油は、それまでの灯りに使われた鯨油などの代わりになる程度の認識しか持たれていなかった。
 ビッセルはその結果から、ペンシルバニア一帯で石油が出るか試掘する会社を早速設立した。これを機にアメリカで石油採掘ラッシュが始まったのだった。しかし採掘した石油にどのような処理をして、どのような形で運ぶかが難問だった。
 ごく初期の石油商人たちは、せっかく手に入れた富の鉱脈をどのように精製すれば良いのかがわからなかった。クラークとジョンは石油にどういう可能性があるかを知っていたが、まだ手を出していなかった。しかし彼らはすこぶる幸運だった。
 ジョンと同じ教会に通う化学者アンドリュースがその精製法を知っていたからだ。アンドリュースは硫酸を使えば原油が様々な原料に変わる石油に精製できることをジョンとクラークに伝える。2人は大規模な石油精製装置を検討した。
 資金はあった。それでも石油精製プラントは莫大な建設費がかかった。そこでジョンとクラークは既存の精製プラントを買収して事業に取り組んだ。安定した収益をあげるまで、2人は石油精製技術を持つアンドリュースとともに経費を切り詰めながら売上を伸ばしていった。
 しかしやがてクラークとジョンが対立するようになると、それまでの事業をクラークに売り払い、その資金でアンドリュースと新たに会社を設立した。これはジョン自身、大きな転換期となった。
 ジョンはアンドリュースらと他の精油会社も買収し、ジョンが30歳になるまでにはアメリカで最も大きな精油会社となっていた。そして1870年、スタンダード・オイル社を設立する。

無言でライバルに帳簿を見せ、
傘下に納めた「殺し屋」

 当時のアメリカは南北戦争が終結し、景気が上向き始めていた。需要はたくさんあった。問題は石油の運送である。当時はまだパイプラインはなく、また長距離道路も未整備だったので、利用されたのは鉄道だった。荒野には道路より鉄道を敷くほうが手っ取り早かったからだった。鉄道を利用すればトラックのような積み替え作業もなく、安く済んだ。
 鉄道会社は当然できるだけ高い運賃で取引をしようとした。しかし鉄道会社に状況は不利に動いていた。まず地元当局が法律で不当に高い鉄道運賃を禁じた。さらにジョンは交渉で持ち前の抜け目なさを発揮する。鉄道会社に対して、自社だけでなくライバル会社の大手企業についても、輸送費を値引きさせたのだ。
 この複数の企業が呉越同舟となって相手と交渉する発想は、後のカルテル(企業連合)につながっていった。
 大手複数社に迫られた鉄道会社は、その申し入れを断ることはできず、その費用をカバーするために他の中小の石油精製会社の運賃を引き上げざるを得なかった。結局この割引は、大手だけが得することになり、公平性を欠くということで、各州や連邦は非合法として責めた。
 しかしジョンは意に介さず、今度は大手精製会社を説得して買収を図っていく。そのなかには敵対する競合会社も多数いた。
 買収に関してジョンは決して脅迫めいたことはしなかった。優しい口調で誘い、帳簿を見せたという。そこには驚くべきほどの低コストで事業展開を図っているスタンダード・オイル社の数字が載っていた。
 つまり、「このままあなたが事業を続けていても、当社には勝てない。早いうちに傘下に入りなさい」という無言の圧力だったのだ。
 ジョンはこの方法で、当時クリーブランド一帯に26社あった精油会社のうち22社を4ヵ月で傘下に納める。その辣腕ぶりは「クリーブランドの虐殺」と称されるほどだった。
 こうしてスタンダード・オイル社はカルテルの盟主から、より資本統合されたトラスト会社になっていった。
 1880年代までにスタンダード・オイル社はアメリカ国内の精油市場のほとんどのみならず、世界市場の9割を占めるまでになった。
 さらに1882年にはスタンダード・オイル企業群をまとめ資産を集中管理するために、スタンダード・オイル・トラスト会社を誕生させている。
 しかし80年代後半にはヨーロッパなどにも石油会社が誕生していくと、徐々に世界シェアを落としていく。それと呼応するように、かねてより反発のあった市場の独占に対して、議会がシャーマン反トラスト法を成立させると、スタンダード・オイル・トラストは解体させられた。

富の追求は聖なる神の使命、
富は神の恩寵のしるし

 ジョンがこれほどまで強気で突き進むことができた背景には、自身を「慈悲の天使」と自認していたことがあると言われている。つまり、決して貪欲に市場を独占し富を独占するために行うのではなく、無力な精製業者を救済することを目的として、秩序と安定と長期的繁栄をもたらす努力をしていたのだと思っていたのだ。
 ジョンの根本的気質をつくりあげたのは、彼のプロテスタントとしての深い信仰心だった。ジョンはマックスウェーバーが指摘するような、社会的責任倫理を重視するプロテスタントの禁欲的企業家の典型とされていた。彼は若い頃から利益の10%を教会に寄付をし続けており、その生活は質素そのものだった。
 その誠実さと道徳性を評価されて、貴重な人脈を広げていった。また銀行も彼の信心を信頼性の証とみて喜んで融資をしたのだった。
 彼の人生の目的は誠実に金を儲け、そしてできるだけ賢明にお金を使うことだった。富の追求は聖なる神の使命であり、そのために慈善と博愛と徳に尽くさなければならないと考えていた。ジョンにとって富は神の恩寵のしるしであり、貧困は神の非承認の証だった。神が望むから自分は豊かでなければならないと信じていたのだ。
 「敬虔な乗っ取り屋」と非難を浴び、時に労働者と対立し、「ラドロー虐殺事件」などの犠牲者を出し、かつてその支援に感激していたヘレン・ケラーから「資本主義の怪物」と指弾されても、その態度を変えなかったのは、いわば神との契約を実行しているとの自負があったからだろう。
 晩年、その富を惜しげもなく慈善活動につぎ込むことができたのは、決してその受けた咎に対する贖罪ではなく、深い信仰心から生まれた当然の行為だったのだ。

子どもたちを
石油事業から離したジョン

 ジョン・D・ロックフェラーが生前最も心配したことは、子どもたちが金で堕落することだった。ジョンは子どもたちに対しても徹底して虚栄を避け、質素で倹約的な生活をするようにしつけている。
 子どもたちに出納簿をつけさせ、金銭感覚を養わせた。また労働の重要性を身につけさせるために、雑用をすることに賃金が払われる仕組みにしていた。ハエを1匹殺すと2セント、鉛筆をナイフで削ると10セントといった具合に。そのため、娘などは積極的にランプの灯りを消して回ったといわれている。
 食事も節制させている。子どもたちが1日に食べるチーズは1切れだったが、ある日下の娘が2切れ食べたことを姉が告げ口すると、ショックを受けたジョンは1日中下の娘をそばに置き、「おまえはわがままだ」と繰り返したという。
  子どもたちは大人になるまで、自分の家の財産がどのくらいあるかを知らされず、ジョンJr.は姉の古着を着せられていたという。
 ジョンは、質素と倹約を身につけた子どもたちを石油事業に深くかかわらせることはしなかった。子孫の多くはロックフェラー財団などを通じた慈善事業の推進に務め、ジョンが望んだように、質素ながらも安寧な暮らしを得る者が多かったようだ。

油田事業ではなく、油田の探査で時代を築いた
シュルンベルジェ

 石油開発で一時代を築いた人は世界にたくさんいる。しかし石油探索技術で時代を築いた一族はほかにはいないだろう。よくアメリカのゴールドラッシュのたとえで、「ゴールドラッシュで一番儲けた人たちは誰か?」という質問がある。
 それは、金塊堀りにやってきた人にスコップを提供するスコップ業者だ、あるいは、丈夫な作業着として人気を集めたジーンズ屋だといった話だ。まさにビジネスの勘所を押さえた逸話だと言えるが、シュルンベルジェ一族の話もそれに近いものがある。
 シュルンベルジェは、油田開発に躍起になる人々に油田のありかを探る技術を世の中に提供して巨大企業になったファミリー企業だ。そのサービスは地下にある石油資源を探り、その埋蔵量を解析し、そこから原油や天然ガスを得るためにはどこを掘削すべきか、採算ベースに乗せるにはどうすべきかなど石油開発のトータルなサービスを提供している。
 その拠点は世界80ヵ所にあり、約12万人が活躍している。

敬虔なプロテスタントとして
仕事に励み繊維業で財を築く

 シュルンベルジェ家のルーツがあるフランスのアルザス地方は、地球科学技術の分野で多くの著名な人々を輩出している。この地方は古くから領有権をめぐるドイツとフランスの紛争に巻き込まれ、動乱の歴史が続いたが、様々な民族や宗教が往来する地外交通の要衝として工業が発達した。人々は教育熱心で、勤勉、質素な気質で知られている。
 それは一帯にプロテスタント派の信者が多かったからだと言われている。
 カトリック派の場合、その階層的構造において労働の意欲はカトリック社会での上昇の可能性に基づいているとされている。多くの人々が勤勉に働くが、それは仕事そのもののためではなく、自己の身分上昇のために働くのだと言われている。これに対しプロテスタント派は、労働のモチベーションが全く異なっていて、社会にあっては勤勉に働くこと自体が目的であり、その精神を持つとされる人々で構成されている。そのためプロテスタント社会はカトリックよりも生産的になるとも言われている。また世俗的な成功は、それ自体が神の祝福であるとみなし、世俗的なビジネス行動を強化するとされている。
 これはまさに先に話したロックフェラーの企業姿勢と似ている。
 シュルンベルジェ一族の礎を築いた、16世紀中頃にアルザス地方に定住したなめし革職人のクラウスは、真面目に仕事に取り組み、仕事を繊維業に変え、100年後にはこの地域で最も力のある一族となっていた。
 一族の出身で作家のジャンは、その様子をこんなふうに記している。
 「朝8時から正午までと、午後1時から夜7時まで休みなく働き、仕事がなくても顔を出す。仕事をしている間は時計のように時間を守らなければならない。規律を破ることは職場の仲間に迷惑を及ぼし、不信心な行為にあたる。」
 規律を重んじ、創造性をもって事業に当たる様もジョン・D・ロックフェラーに通じるところがある。

裕福でも中庸と節制を
守り続ける

 当時のヨーロッパでは繊維業の機械化はイギリスがもっとも進んでいたが、イギリスはその独占体制を維持するために機械の輸出を禁止していた。
 そこでシュルンベルジェ家のひとりが、機械の設計図を外套の裏に縫込み、密かにイギリスからフランスに持ち出したと言われている。そして他社のためにも機械を製造し、フランス産業革命の密かな先駆的役割を果たしたとされる。
 こうしてアルザス地方は機械産業の中心となり、一族は繊維機械製造で財を築いた後は、この地方で最初の鉄道の建設にも取り組んだ。
 シュルンベルジェ一族は常に新しい分野に挑んでいた。しかも裕福な環境にありながらも、150年にもわたって中庸と節制を重んじ、その生活を守り続けている。
 前出のジャンは、祖父の家についてこんな記載をしている。
「高く古い家はタイル貼りの屋根で、外から見る限りは醜くなかったが、中に入った瞬間そのむき出しの質素さに驚かされる。豪華さも快適さもない。洒落た家具はひとつもなく、きまぐれに買い求めたものなど何ひとつとして見当たらなかった。凍りつくように冷たいリビングに暖炉があること自体が奇跡である。夜には薄暗いランプが一つ灯される。スペインの画家ディアスの小品が一枚かかっているだけだ。それに先祖のドリフェスから伝わったのだろう、スペインの画家リベラのものらしい聖ペテロの絵が1枚……」。
 そして祖母の部屋については、「商人宿の部屋のように質素でほとんど家具もなく、クルミ材の大型ベッドに椅子が数脚。木の葉模様の陰気な壁紙で覆われている。女性の気配りを思わせるものは何もない……」。
 時代背景を差し引いても、その質素ぶりに驚かされてしまう。
 一族は、その後蒸気機関を使った機械織機の製造や綿織物の製造で1850年の段階で年間150万フランを生み出していたという。1フランは当時の換算で600円~1500円ほどとされるので、約9億円から数十億円ほどの利益があったことになる。

2人の息子の科学技術の
才能に賭けた父、ポール

 このシュルンベルジェ一族に飛躍の時が訪れたのは、1819年にアルザスで生まれたジャン・ド・シュルンベルジェの息子ポールが、ドイツの支配を逃れ、6人の息子とアルザスからパリに出た時からだ。
 ポールは技術学校を卒業した後、一族の繊維機械工場の経営を引き継ぎ、ビジネスの世界で成功して25社の役員を兼ねるほどまでとなったが、幼い頃から科学への夢を捨てることができなかった。ポールは工場を兄弟に任せてパリに向かうと、長男のコンラッドを理工学校(エコール・ポリテクニーク)に入れて物理を学ばせた。さらに次男のマルセルを技術工業中央学校(エコール・サントラル・デ・ザール・エ・マニファクチュール)に進ませて土木工学を専攻させたのだった。
 この2人が、後にそれまで不可能だった電気測定で油田を探鉱する方法を開発することになった。
 2人は非凡なものを持っていた。応用化学、特に電気の分野に秀でており、なかでもコンラッドは理工学校卒業後、誰も手がけたことのない電気を使って地層の測定を行う方法を研究し、1922年には国立の鉱山学校の教授に着任した。
 民間企業に就職し、退屈していた弟のマルセルは、自動車に関心を持つとオートマチックのギアシフトを発明し、1919年にはロータリーエンジンで特許を取るまでになった。マルセルには想像力と才能があった。兄は優れた研究者であり、弟は優れた技術者だった。
 兄のコンラッドは、1912年に電気による地層測定方法を改良して、弟で考古学者のダニエルの協力を得て、パリの鉱山学校やノルマンディーにある一家の別荘で実験を重ねていた。
 第1次世界対戦の勃発で研究は一時中断されたが、父親のポールが息子たちの研究成果に強い関心を抱き、研究の継続のために50万フランの資金を提供する。
 父、ポールの科学技術への情熱は並々ならぬものだった。資金提供の代わりに2人にこんな契約書を結ばせる。

・ この共同事業では科学研究の成果が金銭的利益に優先する。
・ 研究に重要な進展があったり、さらに資金が必要になった場合にはそのことを私父親に通知し、私の意見を求める。
・ 私の提供した資金は科学研究に対する出資が第一の目的であって、実用化は二次的である。
・ マルセルはコンラッドに対して、技師としての優れた才能と常識を提供する。
・ コンラッドは賢明な科学の徒でなければならない。
・私は2人を支援する。

油田検層事業から
さらに周辺事業に拡大

 第1次世界対戦後、研究の成果が徐々に現れる。シュルンベルジェ兄弟は電気測定によってセルビアで銅山、フランスで鉄鉱石、ルーマニアでは油田を発見する。
 コンラッドはやがて鉱山学校の教授職を辞して、1926年、兄弟でソシエテ・ド・プロテクシオン・エレクトリーク(電気探鉱社)を設立する。
 その後アルザスにあるペシェルブロン石油から石油探鉱の依頼があり、ゾンデと呼ばれる測定装置をケーブルにつないで1500フィートの深さに下ろすと、見事油田を発見したのだ。それは、のちにシュルンベルジェ社の主要業務となる油田検層の測定方法(ワイヤーライン検層)の発明の瞬間でもあった。
 その後社名はシュルンベルジェ社に変更された。まだ油田のニーズが少なく最初は全くといっていいほど注文はなかったものの、海外にもその名が知られるようになると、会社設立から2年後に初めてソビエト連邦から引き合いが来る。2人はそこで何とか生き延びることができた。そして数年後にはアメリカのシェルをはじめ、石油メジャーから注文が来るようになる。
 2人は北アフリカ、スペイン領サハラ、オランダ領東インド諸島、ルーマニア、アメリカ、ベネズエラ、ソビエトなどに技術者を派遣し、油田検層にあたった。
 その後シュルンベルジェ社は、油田検層から掘削、産出テスト、坑井仕上げ、ポンピング、セメンティングなど周辺に事業を拡大していった。設立当初こそ苦しかったものの、1930年代になると世界経済は好況になり、世界的自動車輸送の普及で石油に対する需要が増えて、状況は一層シュルンベルジェに味方するようになった。

アメリカに拠点を移し
さらに事業拡大、ファミリー企業から脱皮

 第2次大戦中は、フランスのビシー政権の親ナチスぶりを嫌い、アメリカに拠点を移し、公用語も英語に変えた。フランス人にとっては大きな決断だったが、社内に抵抗は少なかったという。
 長い伝統を持つシュルンベルジェ一族だが、その後の飛躍的な業績の拡大に対しては、一族による経営を脱し、公開会社へと脱皮することで、世界企業としてのはずみをつけている。
 1965年にはニューヨークの投資銀行からマルセルが引き抜いたジャン・リブーが初めての外部社長として就任した。リブーはその後18年間もシュルンベルジェを支配し、シュルンベルジェ社を飛躍的に成長させた。モルガン・スタンレーによると、1975年から80年までの利益は年間35%で、配当は37%であったと報告されている。
 シュルンベルジェ一族はこの間に株式の4分の1を占めるに留まる。1975年にはマルセルの孫のセイドゥが社長に就き、リブーは会長職となるが、セイドゥは会社が公開会社となったことを心よく思っておらず、次第にリブーとの間に溝ができる。しかし社員の多くはリブーを支持していたので、セイドゥは18ヵ月で会社を去った。
 シュルンベルジェのトップはその後ケンブリッジ大学で博士号を取得した地球物理学者であるイギリス人のユアン・ベアードなどが就き、一族がトップとなることはなくなっていった。

石油事業から
さらに事業を多角化、銀行や出版、映画まで

 一方で石油の探鉱から始まったシュルンベルジェの事業は石油以外にも多角化していき、銀行、プラスチック、出版、映画、テレビ、航空など多岐にわたっている。ロックフェラー一族とは対象的に、敬虔なプロテスタントの教えは次第に薄れ、シュルンベルジェ一族は、その事業の多角化と同様に華麗な社交で話題になる者も出てきている。
 例えばコンラッドの娘のドミニクは、シュルンベルジェ本社の役員と結婚したが、夫婦で美術品を蒐集し、展示会や映画作家などの支援、社会運動家の支援などを行い話題を呼んでいる。2人の周りには常に芸術家や映画人や政治運動家が集まっていたという。
 世界的な大企業となったファミリー企業では、奇しくも敬虔なプロテスタント教徒としての教えを守ってきたことが、その繁栄の礎を築いたと言える。草創期の、忍耐強く、倹約的で強い信念をいかにファミリーで共有し、それを伝え発展させていくかが発展のカギを握っていると言っていいだろう。

墨守するだけではファミリーは発展しない。
ぶつかって乗り越えた後継者

 ファミリー企業の事業承継、発展は規模の大小を問わず難しいものだ。傍から順風満帆に見えていても、その内実は想像を超える葛藤とぶつかり合いが起こっていることがある。親子が生死を分かつまでその溝が埋まらないこともある。
 ここからは、知られざるあのファミリー企業の葛藤とその超越を紹介する。

父の通夜の席で事業承継を決心
「獺祭誕生秘話」─旭酒造

 杜氏を外し、通年醸造という斬新なアイデアと技術力で生み出した清酒「獺祭」。その端麗でキレの良い飲み口はいまや左党で知らない者がいないほど知られている。しかしその誕生の陰には親子の何年にもわたる確執があり、それは結局最期まで交わることがなかったことはあまり知られていないようだ。
 獺祭を醸造する山口県の旭酒造株式会社の代表取締役会長桜井博志氏は、蔵元の長男として早くから事業承継を意識していた。途中事情があって、広島の親戚に預けられていたが、それでも長男として将来父の酒蔵を継ぐことに疑問はなかったので、大学卒業後も大手日本酒メーカーに入社し経験を積んだ。
 しかし、3年半経った頃、父親が病気を理由に呼び寄せる。その後しばらくは父親の指示に従って仕事に従事していたが、徐々に経営方針について対立するようになり、2年後のある日口論となり、父親から「来なくていい」とクビを宣告されてしまう。
 桜井氏は自分で石材卸会社を起こし、持ち前の営業力で年商2億円まで伸ばした。
 しかし事業で生じたわだかまりはどうにも解けず、桜井氏はお盆や正月にも戻らなくなる。
 2年後流石に後継者に困った父親は親戚を介して「戻ってこい」と伝えるものの、桜井氏は歩み寄る姿勢のない父に怒りを感じて、これを拒否する。しかし父親は諦めず、今度は直接帰ってこいと桜井氏を訪ねてきた。その肉声に桜井氏も気持ちが動き、石材卸を経営しながら酒蔵を手伝う形で了承する。しかし相変わらず父親の経営に対する考えは変わらなかった。要は桜井氏を体のいい営業マンとして見ていたのだった。結局桜井氏は2ヵ月で酒蔵を離れた。
 そこから数年後、重い病で死期が近づいた時に、父親は改めて「お前に任せる」と復帰を求める。しかしその状況にあっても経営に対する考えを父親は変えず、支配権を離そうとしなかった。父親の余命がいくばくもないと知りながら、桜井氏はその申し出を断った。その半年後父親は、後継を託す者がいないまま他界する。
 会社の事業の明日がどうなるかもわからないまま父親の通夜が行われた。そこに社員から1本の電話が入る。斎場に近い清酒の瓶詰め工場からだった。
「手元にある酒を熱殺菌しなければ駄目になるが、どうしたらいいのか」と。トップを失ったばかりで誰も何も決められず、皆うろうろするばかり。桜井氏はこの時、いくら自分と対立していても父が酒をダメにしていいという考えはないと考え、その場で指示を出す。
「瓶詰めにしてくれ」。
 その瞬間、旭酒造の新しいトップが決まったのだった。
 こうして旭酒造に戻ったものの社員の士気は上がらなかった。売れる方法を考えてほしいと伝えても、売れない理由だけが帰ってくる始末。
 そこで桜井氏は既存の酒の営業を断念し、新しい銘柄として「獺祭」を立ち上げ、東京に進出する。獺祭は口コミなどで話題となり、徐々に売上が伸びていく。
 しかし経営を安定させようと立ち上げた地ビールとレストランが失敗。たちまち資金繰りに窮してしまう。子どもの大学の学費も出せず、自殺の文字が頭をよぎったと言う。
 こうした会社の変調に長年不満を抱いてきた杜氏が退社し、ほかの古参社員も去っていった。
 そこで桜井氏は、杜氏なしの数値管理で酒造りを決め、数値管理を徹底し、現在の獺祭にたどり着いたのである。数字による細かい管理ができるため、味に斑ができず、しかも全国的にも珍しい通年醸造を実現。近年では世界各国で飲まれるようになった。
 父親の時代に5人だった社員はいま270名までになり、売上は174億円(2023年度9月)に達している。うち7割が海外への輸出だ。生死をかけたと言っていいほどの確執のなかで貫いた信念が旭酒造を飛躍させた。

役員会を僅差で掌握、ハードランディングで
旅館からリゾートホテル運営に
─星野リゾート

 いまや海外にも進出する星野リゾート。もともとは軽井沢にある同族経営の星野温泉旅館が母体だった。星野リゾートの社長である星野佳路氏は大学を卒業後、アメリカのホテル経営の名門であるコーネル大学を出て日系のホテル開発会社で働いていたが、父親に呼び戻されて入社した。
 星野温泉旅館は長期的な視点で経営を行っていて、バブル経済下でも借金の少ない堅実経営を貫いていた。しかし社内では一族出身の役員が特権階級として君臨し、旅館の備品を持ち帰ったり、同じ敷地内にある自宅の電気代を会社に回したりするなど公私混同の状態が常態化していた。
 これでは優秀な人材が集まらないし、入社した社員のモチベーションが上がらないと考えた星野氏は、父親に改革を進言。父親は一旦は受け入れたものの、各論では合わないことが多く、次第に溝ができていく。
 ある日ついに星野氏の怒りが爆発し、改革ができないなら意味はないと退社。
 しかしその後、経営環境の変化に不安を抱いた一族の何人かが「戻ってきてほしい」と訴えてきたため、星野氏は戻ることに決める。
 星野氏は、会社を変えるためには取締役メンバーを変える必要があると考え、株主の賛成を取り付けて取締役会に臨んだ。結果4対3の僅差で支持を得て、改革に挑むことができたのだ。
 以後、「星のや」や「界」、「リゾナーレ」、「OMO」、「BEB」など、新たなコンセプトのリゾートホテルを国内外に展開する一方、地方の旅館やホテルなどを積極的に再生して、現在56超のホテル・旅館を運営している。
 20億円ほどだった年商は、途中コロナに遭いながらも640億円余りと32倍以上に伸ばしている(2023年10月期)。
 2013年父親の嘉助氏が他界。その後出した著書で星野氏は「親子が同じ会社で本気で改革に臨む時は、通常の親子関係は犠牲になる」と述懐している。
 時に事業の継承はそれほど苛烈なものなのだ。

事業を閉じて再出発。
空回りした「ぼん」のリーダーシップ
─スーパーホテル

 スーパーホテルは全国の主要都市に172店舗(2024年1月10現在)を展開する大手ビジネスホテルチェーン。
 会長の山本梁介氏の実家はもともと大阪の船場で繊維商社を手掛けていた。山本氏は小さい頃から母に連れられてよく会社に顔を出しては、番頭さんや女性事務員から「ぼん」と可愛がられ、会社の運動会や松茸狩りなどの会社の行事にも参加していた。
 大学卒業後は会社を継ぐつもりでいたが、その前に修行として大阪の繊維化学商社に入社する。大学で身につけた知識などからデザイン性の高い女性用下着を提案、船場では「誰が買うのか」と笑われたものの、やがて大手メーカーの目に留まりヒットする。
 そんな時に父親が体調を崩して倒れる。山本氏は予定を早めて3年で退社し、父の会社に入社する。
 山本氏の役割は病床の父親に会社で起こっていることを報告することだった。当時の社員は約120人。古参幹部から「ぼんはハンコだけ押してくれたらいい」と言われていたが、ハンコは命より大事と聞いていた山本氏。何事にも父と相談しながら経営にコミットしていった。父と考えが違うこともあったが、「対立したら体調の回復にマイナスになる」と考え、言うことを控えていた。
 その後1年ほどで父親が亡くなり、山本氏は25歳で社長に就任することになる。
 だが健闘むなしく、結局在籍4年で80年ほど続いた会社を畳むことになってしまう。
 生産性を上げようと、業績グラフを社内に張り出して社員を鼓舞したりしたのだが、若さが仇となり、反発の火の手があちこちから上がったためだった。山本氏は、年上に対しても誰彼なく、激しい態度で臨んだという。長年、社員との関係を知る母から「そこまで言ってはいけない」と注意されても、態度を変えることはなかったのだ。やがて傘下の工場で激しい労働運動が起こり、古参幹部は社員側につき、山本氏との溝は決定的になる。
 やがて山本氏の頭には会社を閉じようという考えが浮かび、日に日に大きくなっていった。だが先祖に申し訳ない気持ちが頭をよぎり、決断できずにいた。すでに限界となっていた山本氏はある日思い切って母に打ち明けると、意外なことに母親は反対しなかった。
 山本氏は会社ののれんを古参幹部の作った会社に移し、傘下の工場は大手企業に売却して、祖父と父が築いてきた事業をすべて手放した。社員の雇用も維持したため、幸いにもわだかまりは残らなかった。
 実は山本氏は家業を閉じる前から、単身者の増加を見越した単身者向けマンションの開発事業を手がけていた。単身者向けマンションは順調に伸び、関西を中心に約5000室まで増えるが、結局これも閉じている。
 施設の大半を売却し、今度は宿泊に特化したホテルを立ち上げ全国展開に挑んだ。それがスーパーホテルである。
 スーパーホテルは2度も日本経営品質賞を受けている。
 経営理念に本腰を入れて取り組むことや、朝礼を充実させて社員一人ひとりを見つめ、成長を促す仕組みを作り上げたことなどが評価されたのがその理由だ。また米国の調査会社のJ.D.パワーの「ホテル宿泊満足度調査」では、9年連続1位となっているが、とくにお出向えとお見送りに対する評価やホテル施設、ホテル付帯施設のサービスが高評価に繋がっている。
 それは若くして挫折した家業、マンション事業の経験が生きているからこそでもある。山本氏はのちに、取引を含めた船場の「生き金を使え」「平凡の凡を積み重ねる」という教えが財産として蓄積されているからだ、と振り返っている。

TOP

JOIN US! 私たちの想いに共感し、一緒に働いてくれる仲間を募集しています!

CONTACT お問い合わせ

TOP