COLUMN ビジネスシンカー

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2024.01

あのファミリー企業はどうして強くなったのか。 サスティナブルな現代に求められる
パワーファミリー企業、飛躍の知恵

 世界には個人の名前、あるいは兄弟、一族の名を冠した大企業がたくさんある。いわゆるファミリー企業だ。日本は世界でもっとも老舗の多い国だが、その多くが同族経営だ。同族経営については批判的な声もあるが、おしなべて長寿でかつ利益率が高いことで知られる。つまりサスティナブル企業であるのだ。そのなかでも世界的なブランドや大企業となったパワーファミリー企業には、一族や個人が強烈な個性と信念をもって事業にあたった例が多い。事業の持続可能性が求められる現代。パワーファミリー企業の飛躍の知恵を学んでみる。

1代で総資産
約35兆円の財閥を築いた
ジョン・D・ロックフェラー

 世界的企業の経営者と言えば、GAFAMと言われるメガIT企業、あるいはテスラやNVIDIAのような急成長を遂げるスーパーベンチャーのトップが思い浮かぶだろう。だが少し前であれば、ロックフェラーが必ず入ってきた。
 石油会社スタンダード・オイル社を創業し、多くの石油関連事業を傘下に納め、また多くの慈善事業を行ったジョン・D・ロックフェラーと、シティグループの創業者である弟のウィリアム・ロックフェラー兄弟から始まったファミリー企業は世界的な財閥を築き、英国のロスチャイルド財閥と双璧を成している。ジョン・D・ロックフェラーは、97歳で往生するまでに現在の資産にして約35兆円を築いたとも言われている。彼が一代でそれほどの富を築きあげることができたのは、石油という富の鉱脈を見出す運に恵まれていたこともあるが、その性格や思考法が厳格で用心深いことが大きい。そしてそれは幼少期の環境に由来していた。

狡猾で女癖の悪い
父親にしつけられた
ジョン・D・ロックフェラー

 ジョンの父親であるウィリアムは女癖が悪く、行商でその日暮らしをしていた。ウィリアムは幼少のジョンに対しても、機会があれば騙したり取引をしたりした。必要なら叩くことも辞さなかった。曰く、「息子を抜け目ない男に育てたかった」とのこと。
 そんな父は結局、ジョンと母親を置いて、家族のもとを去っていく。ただ良心の呵責があったのか、別れ際にジョンらに家を新築する。ウィリアムは8人の建築家に見積もりをさせた上で、建設現場に通い詰めて細かい指示を出していた。完成した時には注文の多いウィリアムのせいで業者に儲けはなく、持ち出しが出たほどだった。
 ジョンは完成した家に当然無料で住めると思ったのだが、なんと子どもたちに家賃を請求したのだ。父親はどこまでも抜け目のない人間だった。
 父親の教訓は強烈だった。この件でジョンは父親に家父長としての恩義を感じる必要もなくなり、自由にビジネスに取り組むことができるようになった。
 青年時代のジョンの夢は10万ドルを蓄財することと、100歳まで生きることだった。16歳となったジョンは日給50セントで書店の帳簿係に雇われた。几帳面で抜け目なさを身につけていたジョンの勤務態度はたちまち店主の目に止まり、責任ある地位が与えられた。しかしその地位に見合う給与が支払われていないと思ったジョンは書店を辞め、それまで貯めた資金を元手に独立し、モーリス・クラークと卸売業を始める。
 独立資金は自分の稼ぎだけでは足りず、ジョンは父親から借金する。利率は年利10%で相場より高いものだった。それでも自ら事業を運営できることにこの上ない喜びを感じたのだった。
 ジョンとクラークの事業は、肉や野菜、塩、水、穀物などあらゆるものを商った。ジョンは金儲けを急がずに、忍耐強く綿密で、強引ではなく、ずる賢く立ち回ることもしなかっため、ビジネスは順調に伸びていった。

教会で出会った
事業パートナー

 ジョンが幸運だったのは、石油と出会ったことだった。それも割と近所で。しかもまだそれがどのようなものに使われるのか、十分知られていない時にだった。
 1856年にダートマス大学のビッセルという学生が、イェール大学の専門教授に石油のサンプルの分析を依頼すると、様々な有用成分を含んでいることがわかった。当時まだ石油は、それまでの灯りに使われた鯨油などの代わりになる程度の認識しか持たれていなかった。
 ビッセルはその結果から、ペンシルバニア一帯で石油が出るか試掘する会社を早速設立した。これを機にアメリカで石油採掘ラッシュが始まったのだった。しかし採掘した石油にどのような処理をして、どのような形で運ぶかが難問だった。
 ごく初期の石油商人たちは、せっかく手に入れた富の鉱脈をどのように精製すれば良いのかがわからなかった。クラークとジョンは石油にどういう可能性があるかを知っていたが、まだ手を出していなかった。しかし彼らはすこぶる幸運だった。
 ジョンと同じ教会に通う化学者アンドリュースがその精製法を知っていたからだ。アンドリュースは硫酸を使えば原油が様々な原料に変わる石油に精製できることをジョンとクラークに伝える。2人は大規模な石油精製装置を検討した。
 資金はあった。それでも石油精製プラントは莫大な建設費がかかった。そこでジョンとクラークは既存の精製プラントを買収して事業に取り組んだ。安定した収益をあげるまで、2人は石油精製技術を持つアンドリュースとともに経費を切り詰めながら売上を伸ばしていった。
 しかしやがてクラークとジョンが対立するようになると、それまでの事業をクラークに売り払い、その資金でアンドリュースと新たに会社を設立した。これはジョン自身、大きな転換期となった。
 ジョンはアンドリュースらと他の精油会社も買収し、ジョンが30歳になるまでにはアメリカで最も大きな精油会社となっていた。そして1870年、スタンダード・オイル社を設立する。

無言でライバルに帳簿を見せ、
傘下に納めた「殺し屋」

 当時のアメリカは南北戦争が終結し、景気が上向き始めていた。需要はたくさんあった。問題は石油の運送である。当時はまだパイプラインはなく、また長距離道路も未整備だったので、利用されたのは鉄道だった。荒野には道路より鉄道を敷くほうが手っ取り早かったからだった。鉄道を利用すればトラックのような積み替え作業もなく、安く済んだ。
 鉄道会社は当然できるだけ高い運賃で取引をしようとした。しかし鉄道会社に状況は不利に動いていた。まず地元当局が法律で不当に高い鉄道運賃を禁じた。さらにジョンは交渉で持ち前の抜け目なさを発揮する。鉄道会社に対して、自社だけでなくライバル会社の大手企業についても、輸送費を値引きさせたのだ。
 この複数の企業が呉越同舟となって相手と交渉する発想は、後のカルテル(企業連合)につながっていった。
 大手複数社に迫られた鉄道会社は、その申し入れを断ることはできず、その費用をカバーするために他の中小の石油精製会社の運賃を引き上げざるを得なかった。結局この割引は、大手だけが得することになり、公平性を欠くということで、各州や連邦は非合法として責めた。
 しかしジョンは意に介さず、今度は大手精製会社を説得して買収を図っていく。そのなかには敵対する競合会社も多数いた。
 買収に関してジョンは決して脅迫めいたことはしなかった。優しい口調で誘い、帳簿を見せたという。そこには驚くべきほどの低コストで事業展開を図っているスタンダード・オイル社の数字が載っていた。
 つまり、「このままあなたが事業を続けていても、当社には勝てない。早いうちに傘下に入りなさい」という無言の圧力だったのだ。
 ジョンはこの方法で、当時クリーブランド一帯に26社あった精油会社のうち22社を4ヵ月で傘下に納める。その辣腕ぶりは「クリーブランドの虐殺」と称されるほどだった。
 こうしてスタンダード・オイル社はカルテルの盟主から、より資本統合されたトラスト会社になっていった。
 1880年代までにスタンダード・オイル社はアメリカ国内の精油市場のほとんどのみならず、世界市場の9割を占めるまでになった。
 さらに1882年にはスタンダード・オイル企業群をまとめ資産を集中管理するために、スタンダード・オイル・トラスト会社を誕生させている。
 しかし80年代後半にはヨーロッパなどにも石油会社が誕生していくと、徐々に世界シェアを落としていく。それと呼応するように、かねてより反発のあった市場の独占に対して、議会がシャーマン反トラスト法を成立させると、スタンダード・オイル・トラストは解体させられた。

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