COLUMN ビジネスシンカー

2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

運良くヨーロッパ遊学を果たした渋沢栄一が出会った「バンク」

 実際幸運は続いた。1867年に、フランスのナポレオン三世から万国博覧会の招待を受けた慶喜の弟、徳川昭武(とくがわあきたけ)一行に世話係としてパリに随行するチャンスを得たのだ。そして渋沢は万博が終わった後もパリに滞在し、遊学を続けることができた。

 この時もっとも心を動かされたものが、「バンク」という仕組みだ。当時のパリには一般大衆から小額であるものの、資金を集めてそれを運用するバンクが確立していた。

 バンクは集めた資金を企業に貸し付けて、企業の経営者がこれを的確に運用し利益を上げれば、その利益に応じた形で出資者に還元される仕組みとなっていた。つまり現在の株式会社の原型である。

 その遊学時代、渋沢が感銘を受けたのは、ヨーロッパの行政官や軍人が商売人たちを蔑むことなく、むしろ敬意をもって迎える姿だった。とくに当時のベルギー王に謁見した際には、「鉄を多く使う国が強国である」と教えられて、「日本は鉄が少ないだろうからベルギーの製鉄を買うように」と、一国の王が自国の商品を勧める商人のようなことまでする姿に、渋沢はたいそう感激したという。

 渋沢がフランスから帰国した時には、すでに大政奉還がなされ、時代は一変していた。渋沢が仕えた一橋家は静岡で謹慎させられており、無禄となった旧幕臣が移住していた。

 渋沢は早速フランスで学んだ事業の手法を実践する。明治新政府は新しい通貨として太政官札(だじょうかんさつ)を発行し、これを流通させるために旧藩の石高に合わせて貸し付けた。渋沢はこの割り当てられた太政官札と静岡藩士や商人たちから募った出資金と合わせ、半官半民の事業会社「静岡常平倉(しずおかじょうへいそう)」を設立する。

 静岡常平倉での事業は、無給となった幕臣たちによる静岡特産の茶の栽培や養蚕を行い、特産品として販売することだった。このほかにも地元の商工業者への貸付も行って、出資者に応じた配当も出している。

 渋沢の事業は、商品づくり、話題づくりもうまく、見事に成功した。するとこの渋沢の手腕に新政府が注目することとなる。

 1869年に、当時の大蔵大輔(いまの財務大臣)である大隈重信から招聘を受け、新しい局で財政・金融制度の確立に取り組むことになったのだ。

 渋沢が後に500もの企業の設立発展に関わるという超人的な仕事を成し遂げるベースは、この時に培われた。

 渋沢は、貨幣制度や租税制度だけでなく、そのための測量制度、その後に行われる廃藩置県によって生まれる諸官庁の設立、海運、鉄道などの運輸交通の整備といった、あらゆる制度の原案を提案し続けた。

 そして渋沢は、日本社会、商工業を発展させるためには、株式会社を社会に根付かせ、それを支える金融制度の起点となるバンクを実現することを上司や政治家に説き、三井や小野といった旧商家と共同で銀行を設立した。

 渋沢は1873年に大蔵省を辞職。その後は在野で次々と会社を設立したり、設立の支援をした。

 みずほ銀行の前身である第一銀行や、三井住友銀行の前身の三井銀行などの銀行はもとより、東京海上日動火災保険の前身の東京海上保険などの損保会社、東急電鉄、東京メトロの前身の目黒蒲田電鉄、東京地下鉄道、王子製紙の前身である抄紙会社、東洋紡の前身の大阪貿易会社、東京ガスの前身の東京瓦斯会社、帝国ホテルなど、まさに「国造りの神」の名にふさわしい、ありとあらゆる会社を手がけている。

 これだけの数の企業を生み出せた背景には、当時がまだ株式会社の制度、金融制度が社会の信任を受けていなかったことがあった。そのため渋沢の名前が会社に連ねられていることでこの信用を得たという側面もあった。

 渋沢は70歳の古希を機に、第一銀行と銀行集会所を除く全ての会社から引退し、その後はもっぱら社会事業や公共事業に専念している。渋沢は障害者や孤児、病者などの保護施設、養育院の初代院長を務めてもいる。

 晩年渋沢は『論語と算盤』を著し、そのなかで「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と語っている。