COLUMN ビジネスシンカー

2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

沿線開発で資産価値を引き上げ、キャッシュを増やした小林流錬金術

 一方阪急電鉄の小林は、根津と同様に農業と酒の問屋を営む豪農の子として生まれている。このあたりは根津と被るところがあるが、小林はもともと作家志望で、進学した慶応大学時代には、地元の山梨日日新聞などに小説を連載していたほどだった。

 卒業後は都新聞(東京新聞の前身)に入社する予定だったが叶わず、三井銀行に入行し、銀行員として14年過ごした。ただ本来銀行員のような固い商売は似合わなかったようで、得意先と一緒にかなり遊び回っていた。

 しかし、現在に至る宝塚歌劇団や駅直結のターミナルデパートなどの、ユニークな事業家としての発想は、この頃の遊興によって培われたものだった。

 小林のその豪快な遊びとユニークな発想は、上司であった岩下清周から目を掛けられていた。この岩下との出会いが、後の小林の人生を変えていく。岩下は大阪支店長時代、積極的な拡大を図るが、この拡大が三井の方針と合わず、辞職し、自ら北浜銀行を設立する。

 この時小林も北浜銀行に転職するつもりだったが、三井側に察知されたのか、タイミング良く名古屋支店に転勤となる。その後大阪支店に戻り、さらに三越呉服店に移るも、うまくいかず、結局退職した。

 小林が旧知の岩下に転職を相談すると阪鶴鉄道の監査役を紹介される。しかし阪鶴鉄道は国有化で買収される予定となり、立ち消え。そこで頼ったのが阪鶴鉄道の株主が計画していた新規鉄道線事業だった。小林は岩下の北浜銀行と、慶応閥の先輩などからなんとか融資を受け、1907年に箕面有馬電気鉄道の設立にこぎつける。

 しかし、小林の思いとは裏腹に世間の評価は厳しかったようで、「空気を運ぶ電車」と揶揄されていた。というのも沿線一帯は農村地帯で、大阪を離れると住宅地らしい住宅地がなかったからだ。

 小林は逆にそこに目をつけた。沿線に戸建て住宅を次々と建てて、しかも当時珍しい月賦販売とした。公務員初任給50円時代に「月12円を払っていけば10年で自分の家になる」と宣伝したのだ。

 一方投資家向けには、沿線価格が安いので、坪1円で買って鉄道敷設後に坪2円50銭で売ればいいと謳っていった。やがて沿線には関西学院、甲南女学院、神戸女学院などの有名私学が立地し、沿線の人気が高まっていく。

 才気ある小林が次に目をつけたのがレジャーだった。当時寂れた温泉街だった終点の宝塚に、家族が楽しめる豪華な大浴場を設えた日本初の室内温泉水浴場をオープンさせ、さらにそこに少女を集めた歌劇団をつくったのだ。これが現在の宝塚歌劇団のルーツである。

 アイデアに富んだ小林は、その後ターミナル駅に直結したデパート、"ターミナルデパート"を梅田駅にオープンさせる。家族で楽しめる高級食堂を最上階につくり、接客スタイルをマニュアル化し、洗練されたイメージを作り上げた。このターミナルデパートのコンセプトは、その後五島慶太の東急や根津嘉一郎の東武、堤康次郎の西武などにも導入されていった。

 小林も東武の根津も、鉄道だけでなく複数の事業、会社に関わっていったが、根津が複数の鉄道を運営していったのに対して、小林は鉄道を軸としながら周辺の事業開発で業容を広げていったところに特徴があった。