COLUMN ビジネスシンカー

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2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

汽船3隻で財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎

 明治期に会社を成功させるには、海運も決め手だった。

 日本を代表する企業グループ「三菱」の基礎を築いた岩崎弥太郎も、海運で事業基盤を築いた人物だ。

 岩崎は高知県の現在の安芸市の、代々郷士の家に生まれた。しかし岩崎が生まれた時には郷士株を手放して、地下浪人となっていた。名字帯刀は許されたが、実質的に農民だった。

 岩崎は将来学問で身を立てていくつもりだった。1854年、19歳の時、江戸で遊学する機会を得た。学問の重要性を理解していた父母はその費用を先祖代々の山林を売ることで工面した。

 江戸に出た岩崎は、世間が尊皇派や攘夷派、公武合体派などが渦巻く世間の風を敏感に感じながら、私塾「見山塾(けんざんじゅく)」で猛勉強した。しかしまもなく父親が酒席で庄屋と喧嘩をして重傷を負ったとの知らせが入る。岩崎は急いで帰郷した。

 帰郷した岩崎は、すぐさま父のために奉行所に庄屋の非を訴えた。しかしそれが叶わず、腹いせに奉行所を非難する漢詩を奉行所の壁に貼り出して、投獄されてしまう。

 岩崎はこの件をきっかけに権力に対する反骨心を強めていく。だがこの投獄は後々に岩崎に僥倖をもたらした。

 獄中で知り合った商人から算術を教わり、商売の楽しさを知ったからだ。

 7ヵ月後、釈放された岩崎は、高知城近くで商売を始めた。この時近所に土佐藩の藩政改革を主導していた吉田東洋が私塾を開いていた。実は吉田も江戸の藩邸の宴席で、藩主山内容堂が招いた客人を殴り、謹慎中だった。

 もとより向学心の高い岩崎は吉田の私塾に入門。その後謹慎が解けた吉田が藩政に復帰すると、才能ある岩崎も登用される。

 吉田の藩政改革は藩内に特産品を中心とした産業を興し、外国と交易して軍を近代化する、いわゆる富国強兵策だった。藩は岩崎に外国と交流のある長崎に調査に向かわせた。外国にはどんな産品が売れるのか、どんな期待をしているのかを調査するためだった。しかし岩崎はどのような調査をしていいのかかいもく分からず、連日異国人を招いてどんちゃん騒ぎを繰り返し、たちまち公金を使い果たしてしまう。

 結局、調査はまともに進まず、ただ公金を使い果たして藩に帰ることになった。岩崎は当然大叱責を受け、職を罷免されてしまう。

 しかし、この長崎での調査が後の岩崎の人生のベースをつくりあげる。

 半年に渡った長崎暮らしで、異国の暮らしと海運、貿易にいたく刺激されたのだ。

 岩崎はしばらく在野で暮らしていたが、再び藩から声がかかった。土佐藩は長崎の出張所である長崎商会を通じて貿易を始めたものの、欲しい商品が多すぎて輸入超過となり、財政の立て直し役に白羽の矢が当たったのだった。

 当時の各藩は、風雲急を告げる時代の変化に対応すべく、武器や船舶を大量に購入しようとしていた。台所事情の苦しい土佐藩にとっては、難題であったが、岩崎は先の長崎遊学で知ったグラバーなどの支援もあって、他藩に有利な状況で購入を進めることができたのだった。先の放蕩にも近い行いがここで活躍することになったわけだ。

 その後、大阪と神戸が開港し、土佐藩は長崎商会を閉め、大阪に拠点を移して大阪商会を開く。

 1870年、土佐藩はさらに大阪商会の名称を「九十九商会(つくもしょうかい)」に変えた。これは明治新政府が中央集権を進めるために繁営する各藩の事業を禁止しようとしたためだった。岩崎はこの際、この九十九商会の実質的トップとなり、その運営に力を発揮する。この時の事業の中心は土佐藩から払い下げを受けた3隻の汽船だった。

 その後の廃藩置県で土佐藩が消滅すると岩崎は藩士らを引き受けて、九十九商会の事業を引き継いだ「三川商会(みかわしょうかい)」の経営者として、海運業を中心に発展させていく。すでにこの時期にはあの三菱マークを使っていたようだ。

 岩崎の会社は、その後の台湾出兵や西南戦争での新政府の物資輸送に使われたこともあり、いわゆる政商の色を濃くしていった。その献身ぶりは徹底しており、西南戦争時には定期航路を運休して政府に協力していた。西南戦争終了時に三菱は日本の汽船総トン数の7割を占めていたと言われている。

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