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先の見えない時代、ビッグデータ時代だからこそ学びたい勝負師たちの「勘」

トヨタ、ソニー、ソフトバンク、サントリー名経営者がもつ「勘」とは

新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。いつ収束するのか先の読めない状況となった。しかし先の見えない状況であっても、時代の先を読み、変化を先取りして次の一手を打っていくことは求められる。そのためには科学的で正確なデータを集め、的確に分析し、合理的に判断をしていくかにかかっている。

だが一方で、経営の最終的判断は、「勘」だと考える人とも多いようだ。実際名経営者と呼ばれる人たちは、そういった勘が働く。

トヨタの元会長の奥田碩さんはその一人だ。奥田さんは社長時代にプリウスを始めとするハイブリッドカーの開発を加速させる一方で、それまで「お金がかかるので参入してはいけない」といういわばトヨタの不文律を破ってF1 への参戦を決め、業界関係者を驚かせた。エコという未来の柱を立てながら、一方でガソリンをガブ飲みするF1 に参加するのは、筋が通らないようにも見える。奥田さんはヨーロッパ市場の取り込み、ひいては世界のクルマ市場を考えるとF1 というブランドはたとえ優勝台に登らなくても、それに見合う価値があると読んだのだった。

奥田さんは株価をよく当てて、周囲を驚かせていたと言う。それだけでなく競馬もやる人でこれもよく当てたそう。独特の勘とセンスがあったからこそ販売台数世界トップを導いたのだと言えよう。

ソニー創業者の井深大さんも勘の鋭い人だった。井深さんはソニーの前身の東京通信工業を戦後間もなく立ち上げた時、トランジスタラジオをやってみようと考えた。当時トランジスタのラジオの製造はアメリカのメジャーな会社も実現しておらず、しかも特許料が900万円。年間利益が吹き飛ぶような巨費だった。

当然、社員は反対した。しかし井深さんは、「トランジスタを使えば、胸ポケットに入る超小型ラジオができる。日本人は昔から小型のものや小さくまとまったものが好き」だと説き伏せた。かくしてソニーのトランジスタラジオは大ヒットし、世界のソニーの足がかりを掴んだのだった。

井深さんが亡くなった時、OB でノーベル賞物理学賞受賞者の江崎玲於奈さんは、弔辞で「未来を考え、見ることで、現在と明日を知る人だった」とその独特の直感力と洞察力を称えている。

ソフトバンクの創業者孫正義さんも、勘の鋭い経営者だろう。創業時から「豆腐屋のように1丁(兆)、2丁(兆)いう売り上げを数えるようなビジネスをする」と公言していた孫さん。自己資本の数倍もの買収を大胆に仕掛けたり、度肝を抜くプランを打ち出したりするのは、常識や合理性だけでは捉えきない。

サントリーホールディングスの元社長、佐治信忠さんも勘を大切にする経営者の一人だった。佐治さんは勘を、「普段の勉強とか経験から自分の中に蓄えてきたものだと思います。この勘をどう磨いていくか。どうすればいつも勘が冴えるかを考えること、それが経営者にとって重要じゃないですかね」と語っている。

こうした勘は持って生まれた天性のものなのだろうか。トヨタやソニーなど大企業の成功者の話を出してしまうと、なおさらそう思えるかもしれない。

わずか30分の騎乗で馬の調子をすべて感じ取るトップジョッキー

しかし勘は鍛えることができる。鍛えることで、勘がしっかり身につき、働くようになる。

たとえば競馬の騎手(ジョッキー)。

競馬は普通のスポーツとは違い、騎手がいかに優れていても強い馬とのめぐり合わせがなければ、勝つことができない。またいかに速い馬でもレースの展開に恵まれなければ、勝てない。まさに人馬一体となって、さらに運に恵まれなければ勝てないのだ。そのなかで歴代2位、通算2943 勝、重賞と言われる高額賞金の掛かるレースで171 勝をあげた日本中央競馬会のトップ騎手、岡部幸雄さんもまぎれもなく勝負勘を持っていた人だ。

騎手という職業は、馬の背に乗った時にいかに馬の状態を掴むかで勝負が決まる。とくにフリーのジョッキーは、レースごとに騎乗を依頼されるために、レース直前のパドックで30 分ほどの間、その背に跨って調子をつかむ。

もちろん、それまでにその馬の過去の成績や癖、体質などの情報、また出走する馬の成績と特性、鞍上する騎手の成績や個性などさまざまなデータを叩き込んでいる。事前の情報収集がいかに大切かは、ほかのスポーツや仕事でも同じだ。

その上でレース展開を読み、どの馬より先にゴールを通過することを考える。「たとえ出走メンバーのなかで実力が劣っていたとして、なんとか勝たせようと考えるのが騎手の仕事だ。そのためには、ただ理にかなった細心の騎乗を心がけるだけでなく、実力差を覆すための秘策なども必要になってくる。だからこそ騎手は、レース前からシミュレーションを練っているのだ」(『勝負勘』〈以下同書〉)

同じ騎手、同じ馬で10回のレースを行ってもレースの展開は全部変わる

馬は重要なレースだからといって、一所懸命走るとは限らない。常にトップギアで激走するのでは、馬も大変だ。

「レースにおいて、馬たちは常に全力で走っているわけではないので、どこで馬を本気にさせるかという『仕掛けのタイミング』も、騎手の判断に委ねられる重要なポイントの1つになる。その仕掛けのタイミング1つをとっても、常識的なタイミングを選んでいくだけではなく、一発勝負にかけるような大胆さが求められるケースなども出てくる」のだと。

しかしその綿密なシミュレーションも、直前のパドックで跨った状態で「!」というものなのか、「?」というものでは、レース展開は変わってくる。トップジョッキーは、極論から言えば、わずか30 分、自分のお尻から感じ取る馬の状態でレースを調整、組み立て直すのだ。それだけではなく、周りの馬の状態もみる必要がある。

ライバルと目していた馬の状態が悪そうに見えたり、事前に軽視していた馬の状態が良さそうに見えれば、そこでまた考え直す部分が出てくるからだ。

そのレースも当然シミュレーション通りとはいかない。

「1つのレースに出走した同じ18頭に同じ騎手が乗り、同じコンディションで10 回レースをしたとしても、レースは10 回とも性質が異なるものになるからだ」

つまり馬やジョッキーの情報を集め、さらにレース展開シミュレーションを重ねて望んでも、その通りならないのが競馬。だからこと瞬時瞬時の判断、「勝負勘」が必要となってくるというわけだ。

たとえばコーナーでのコース取りを選択する際には、コーナーの内側に入るか外に出るかという目の前の選択だけでなく、先を読む姿勢も必要だという。

「コーナーでの選択をする際には、前の馬たちがどれだけのスタミナを残していて、その後にどういうコース取りをするかをしていくまでを推察しておかなければならない」

そして「選択肢が差し出された瞬間に『これだ!』『できる!』と確信に近い答えがはじき出されてこそ、いい結果につながる。それはやはり直感が導き出している回答だとしか言いようがない」

名騎手が勘を磨くために行ってきた自然体のこと

では岡部さんはどのように勝負勘を磨いてきたのだろうか。

「自分自身の感覚からすれば、人と大きく変わったことなどは少しもしてこなかったと思ってる(中略)。騎手生活を振り返って、自分のしてきた一例を挙げてみるならば……

・毎日のトレーニングを欠かさない
・自分が乗る馬のレースでも、できるだけ多くのビデオを観る
・自分が乗る馬の調子を把握するためにもできるだけ、厩舎に足を運ぶ

といった極めて当たり前のことだった。

そういった努力の仕方を岡部さんは「自然体」と呼ぶ。

基本は情報を積み重ね、自分の経験値を駆使してシミュレーションを描いて、差し出された瞬間に一気にしかける決断ができるように、日々情報を更新していくのだ。

しかし、そういう経験知が積み上がっていくと、逆に馬の能力を引き出せず、失敗することもある。

競馬では馬の特性によって先行逃げ切り、追い込みといったいろいろな戦法を取る。競馬は1着に入らずとも、2着、3着に入れ、1着との組み合わせで馬券の払い戻しの対象になる。2着、3着が続けば、優勝はできなくても強い馬、いつかは勝てる可能性のある馬として、期待が掛かるようになる。そうすると騎手は、「その乗り方でいい。あとは展開に恵まれさえすれば」と戦法を変えようとしなくなる。しかも名手と言われる騎手が手綱をとっている場合はなおさらだ。

そこに穴がある。

「それまでに何度もレースに乗ってることで馬の短所を知り尽くしているため、あるいは知り尽くしているつもりになっているために、長所を引き出せなくなるケースは案外多い」

たとえば、2着が続いて「シルバーコレクター」と言われたハーツクライという馬がそうだった。

ハーツクライは鋭い末脚が武器で、レースの序盤は後方を進んで、大外から追い込むスタイル。安藤勝己騎手や武豊騎手、横山典弘騎手などいった名騎手が騎乗、2着を繰り返していた。

ところがフランス人のクリストフ・ルメール騎手が騎乗するようになると勝てるようになった。ルメール騎手は2005 年の有馬記念で序盤から前につく先行策を取り優勝。その後の海外で行われたドバイ・クラシックでは、逃げ馬の戦法をとってまたも優勝した。戦法を単に変えるだけでなく、状況、状態によって果敢に変えていったことが奏効したのだと思われる。

もしかしたらハーツクライという馬が特殊な馬だったのかもしれない。武豊騎手や横山典弘騎手という当代を代表する騎手が「この馬の持ち味は末脚だ」と考え、「それ以外の乗り方はできない」と考えるだけの理由があったのだと思われる。

でも結果が出ないなら、やり方を変えればいい――。ちょっと気が利く人なら誰でもそう思う。しかし、競馬はそう簡単ではないようだ。

「馬の持っている力を発揮させるときに、もっとも重要になるのはリズムであるからだ。馬が行きたがっていないのに行くように指示したり、馬が行きたがっているのに抑えようとすればリズムが狂う。それによって本来の脚が使えなくなり、スタミナまでも一気に消耗させてしまう」からだ。

そうしたことを繰り返し、「理想のレース」と「やってはいけないレース」を騎手はカラダに覚えさせ、勘を研ぎ澄ましていくのがトップジョッキーなのだ。

20年間無敗の雀士が、命を守るために勘を磨いた4つの方法とは

勝負師と言えば、麻雀の世界にもそういう人たちがいる。

麻雀にはプロのトーナメントがあるが、これとは別にいわゆる裏社会で依頼を受けて勝負する代打ちという人たちがいる。その裏社会の代打ちを20 年間務め、無敗を誇った伝説の雀士が桜井章一さんだ。

その奥義は「負けないこと」。麻雀は4人で行う勝負ですので、自分がどのような手牌で、勝てる位置にいるかどうかを流れのなかで判断していかなければならない。

しかも代打ちという業は、勝つことが求められる場合もあれば、負けることを求められることもある。桜井さんは実際に男たちに拉致されて穴に埋められる寸前で助けられたことがあるそうだ。「生きていたいなら負けろ」と脅されて、日本刀を突きつけられながら麻雀を打ったこともあるという。勝っても負けても命の保障はない、絶体絶命の状態を、勝たずに負けずに場をコントロールしながら麻雀を続けてきたというのだ。

櫻井さんはいう。

「運やツキというのは、自分でコントロールできるものである。

運やツキといった流れを感じる力、感性、つまり『直感力』があれば、そういった逆境であっても生き抜くことができるのだ。

私は、常に自分のカンを信じて行動してきた。

麻雀の裏社会で、私が20 年間無敗でいられたこと、そして還暦を過ぎたいまでも五体満足で生きながらえていられるのは、ひとえに『直感力』のおかげだと信じてる」

まさに命をかけた勝負の世界で20 年間生きてきたというだけあって、非常に重みがある。

では、桜井さんのいう、カンを鍛える方法とは、どういうことなのだろうか。

桜井さんはカンを鍛える方法を次の4つに分けている。

1.常識や知識を捨てる
2.自然から学ぶ
3.弱い者(とくに子ども)から学ぶ
4.「譲る力」を知る

勝ち組・負け組という価値観を捨てる

まず、常識や知識を捨てることについて、桜井さんは「勝ち組・負け組」という言葉を批判している。

「世の中の人は、少しでも勝ち組に入ろうと努力する。負け組にならないように死力を尽くす。相手を蹴落としてでも、自分だけが勝ち組になろうとするのだ。

この場合の『勝ち組・負け組』というのは、ほとんどの場合が収入の問題であろう。つまり、お金という価値観で私たちは生きていることになる。

まずはそのような勝ち負けには意味がないということに気づくことが重要だ。人間の価値観は、お金で判断すべきものではない。

そんなことは当然だと誰もが思っているだろうが、実際は誰もがお金という悪魔に取り憑かれているのが現実だ」(『カンの正体』〈以下同書〉)

桜井さんは麻雀で勝つということについて、「それだけ負けた人間がいるということを忘れたことは1度もない」という。

「私が五体満足で生きられるのは、負けた人間の屍の上で成り立っているというのも事実である。

仕事で成果を上げるということは、それだけ多くの被害者を生み出しているに違いない。お金を稼ぐことで、お金が奪われる人がいることを肝に銘じてほしい」

そしてこの損得勘定にこだわることが、カンを鈍らせるのだと語る。

損得勘定が出てしまうと、人を「便利さ」と「利用価値」で見てしまうようになってしまう。それを測るのがお金だ。便利なもの、利用価値の高いものを手に入れる武器がお金であり、それが多いほどより便利なもの、利用価値の高いものが手に入る。

便利さと利用価値というのは、現代の資本主義、成長の原点だが、桜井さんは「便利で利用できるものを追い求めるという感覚が身についてくると、当然ながら、あなた自身も同じように扱われるようなるのだ」と言い切る。

桜井さんはこう問いかける。

「好きな人、まわりの人から『あなたは便利だね』と言われたら、やっぱり悲しいと思わないのだろうか」と。

学問はマニュアルに過ぎない

桜井さんはとにかく便利なもの、利用価値が高いと思われるものや物事に「こだわるな」「捨てよ」という。

それはたとえば、誰もが持てと言われる「夢」や「愛」。あるいは「成功法則」、ありがたいと思われる「思想」や「宗教」、そして「学歴」や「職歴」、「学問」さえも、「捨てよ」と。「(世間でいう)学問はマニュアルにすぎない。本当の学問というのは、答えが定まっていないことを見つけにいくことだ。定まっていないものを感じたり、知りにいったりするのが本当の学問の世界だと私は思う」

桜井さんが恐れるのは、学問があることにより、感覚的に「こうしたほうがいい」となんとなく思っていても、頭で考え、「やめておいたほうがいい」と判断してしまうことだ。その行動を制するのが、学問であったり、社会の常識であったり、世間がいうところの「良さ」であったりするのだ。

現代の人がうつになったり、キレてしまうのはそのためではないかと、桜井さんは感じ取っている。世の中の人々が「常識を求めるから、逆にイライラした人が増えてしまっているのだ」と。

考えてみれば、利益や効率とかといったものは、何かを増やすことが前提だ。効率を良くすることは、無駄を排除する、少なくすることになる。でも最終的にはお金を増やすことがゴールとなる。

「得ること」とより「失うこと」に注意を向けよ

そうは言っても資本主義の枠のなかではその考えから抜け出すのは、まずもって困難なことだ。桜井さんだからできることだろう。

しかし、常に何かを「得る」ことを強いられていた現代人の感覚は、どこかで人間が本来持っていた生きるための本能、カンを鈍らせてきたのではないだろうか。

桜井さんは問う。

「私たちは、ほしい物を得ることばかりに執着してきた。

なぜ、そこまでして得ることに執着するのだろうか。その理由は、やはり失う不安があるからだろう。だから、もっと『失う』ということに真摯に向き合う必要があるのではないか。

そもそも、人間というのは、死んでしまったら何も残らない。財産や土地も、自分のものではなくなってしまう。それは子孫に残すことになるのかもしれないが、自分のものではない。

つまり、人間にとって『得る』ことよりも『失う』ことのほうが自然なのである」

そういった達観の境地に辿り着けるのも、桜井さんが麻雀という独特のゲームのなかで生きてきたこともあるかもしれない。

「麻雀というゲームは、牌を1枚ツモってきて、牌を1枚捨てて上がりを目指すものである。1枚ツモってきたら1枚捨てないといけない。もし捨てないと、多牌(ターハイ)というペナルティがある。

つまり、何かを得たら何かを失わないといけないゲームである」

桜井さんは、「14 枚の手牌からどれを捨てるかに、その人の性格が表れる」という。

「結果ばかり追い求める人は、他人の気配を気にせず、自分の都合で、いらない牌を捨てる。負けを怖がる人は、他人の安牌(あんぱい)ばかり抱え込む。効率を優先する人は、確率を計算して捨牌(すてはい)を選ぶ。麻雀とは捨てるゲームと言えるのである」

1秒で牌を捨てる。牌を捨てる動作、捨てる時に音にもこだわる

だから桜井さんは捨てることにこだわる。

桜井さんは、いま麻雀道場を開いているが、その道場ではどの牌を捨てるかということと同時に、捨てる動作の美しさも問うと述べる。

そのために1秒で捨てることをルール化している。そうすると考えて捨てるのではなく、感覚として捨てることを身につけざるを得なくなる。

さらに桜井さんは音にも注意している。

牌を捨てるときにはいい音というものがあり、牌を捨てるときの音で、「この人は弱っているな」とか「この人は迷っているな」「舞い上がっているな」というのが分ってしまうのだそう。

こうしたルールやこだわりが身につくため、桜井さんの道場ではゲームが非常に速く進む。麻雀は1回のゲームを半荘(はんちゃん)というが、半荘を終えるのに通常1時間くらいかかるのが、桜井さんの道場ではだいたい15 分で終わってしまう。通常の4倍の速さだ。

「考えてから決断することは、複雑な迷いをつくってしまう。最終的な決断は1つなのだから、シンプルに瞬間で表わせばいい」

得ようすると考えてしまう。考えると迷ってしまう。だからできるだけ考える間を与えないようにする――功利的に何かを計算しようとすると何かが邪魔をして、勘が鈍っていくのだ。

本能を磨くためにサメと一緒に泳ぐ

では常識や知識を捨ててしまったら、そこには何が残るのだろう。それは「面白いかどうか」という基準だ。

桜井さんは「『面白いな』『楽しいな』『笑えるな』ということを基準に選んでいけば、自然と笑顔が出てくる」という。「そういうものを基準にして、良いこと、悪いことを自分で感じていけばいい」

つまり、得るものではなく、失うことに関心を向け、いわばより潔く失うことを身につけていくと、人間本来の勘が働くようになっていくのだ。

それでは、そうやって本来持っている勘を取り戻せばいいのか。磨くためにどうすればいいのだろうか。

それは自然に触れ、学んでいくことだ。桜井さんは、海が好きでよく潜るそうだが、そのなかで最も好きなことはサメと一緒に泳ぐことだという。

「人間というのは大自然の中に入ると、恐怖を感じるだろう。それは人間の本能として当たり前のことだ。防衛本能というものかもしれない。

ただ、私はその恐怖を乗り越えたいという気持ちがある。恐怖を乗り越えるためには、より恐怖を感じる方向に進んだほうがいい。だから私は、サメを求めて素で海に潜るのである」(『カンの正体』)

そんなことができるのは、生死をかいくぐってきた桜井さんだから可能なのだろう。

ただ自然のなかに身を置くということは、失っていた五感機能を取り戻すきっかけになることは確かだ。何よりありのままの自分でいられる。

日本には四季がある。桜井さんはその四季のうつろいを感じるだけでも、自然に戻ることができると述べている。

「もっと身近な変化に目を向けてみてもいい。たとえば、毎日通る道で、今日咲いた花よりも、他人が見落とすような雑草に気づく感性が重要なのである」

山奥や遠い南国の海にいかなくとも、身近な自然に目を向けるだけでも、勘は研ぎ澄ますことができる。

「自然の前では、虚勢をはる必要もないし、着飾る必要もない。一人の人間としてありのままでいられるのだ」

眼光が鋭い人は、それほど強くない。強い人は「ふんわり」している

ところで強い勝負師とはどんな人なのだろう。離れていてもオーラがあり、どこか眼光鋭く、近寄りがたい気配を放っている……そんなイメージを持つが、桜井さんに言わせると、「本当に強い勝負師というのは、もっと『ふんわり』している」のだそう。

「眼光が鋭い人ほど、それほどたいしたことがない場合が多かった。逆に本当に強い人は、どちらかと言えば、ふんわりしている。

だからと言って、ただふんわりしているわけではない。視覚というものを極力使ってないだけで、ほかの五感をフルに活用しているのだ。自分の手牌、相手の捨牌を目で視るのではなく、その場の流れや空気を読んでいるのだ」

視覚に頼らず、五感を活かそうとすることで、「逆に目に力が出てくる」とも証言している。

確かに現代はパソコンをはじめ、1点を視ることを強いられる社会。だからこそ、「多角的に全体を捉える必要があるのだ」と。つまり自然を取り戻すことは、野生の感覚を取り戻すことほかならないのだ。

桜井さんが現役の代打ち雀士だった頃に野生の感覚を取り戻すために、否、野生の感覚を忘れないように取り入れていたのが、「断食」だ。

もともと野生の動物は、常に餌に恵まれているわけではない。たまたまごちそうが続くこともあるが、長い期間餌にありつけないこともある。そのため餌の少ない時期にはクマやヤマネなどのように冬眠をしてエネルギーを使わないようにする動物もいる。

動物には、そういった長期にわたって餌にありつけない時にも生命を保てるようなメカニズムが備わっている。人間もそうだった。天候不順や狩りの成果が出ずに、飢饉に遭ったことはつい数十年前まで日本にもあったことだし、世界中ではいまだにその危険に晒されている人たちがいる。

その状態は現代においては不幸だが、生き物としてとらえた場合、必ずしも常に食べ物がある状態が自然とは言えない。

「断食はいま健康法として取り入れられているかもしれないが、その本当の意味は、自分の命が危険であることを身体で感じるためにあるのではないだろうか」

断食をすることで、命の危険を感じ、その危機感が野生の本能を呼び覚ますと、桜井さんは捉えているようだ。

大人と付き合わず、子どもと真剣に遊ぶ

もう1つ、勘を磨く上で重要なことが、子どもの感覚に戻ること。かと言っていきなり子ども時代の感覚に戻ることはなかなかできない。そこで桜井さんが勧めているのが、子ども遊ぶこと。

子どもと遊ぶときは一生懸命遊ぶ。子ども相手とはいえ、本当に向き合って遊ぶときは、疲れるもの。なぜ疲れるかといえば、子どもは大人の価値観で生きていないからだ。

「子どもと遊ぶには、常識や知識といった荷物を捨てないといけない。お金の価値観といった大人の常識を振りかざして子どもと遊んでいてはダメだ」。

桜井さんはこう断言する。「はっきり言ってしまうと、大人と付き合う必要がない。大人の付き合いなんて、ほんとうにいい加減なものだ。みんな真剣に付き合っていない」と。

「何が良くて悪いというのは、すべて大人が勝手につくったものである。大人は常識や知性を追い求める。『学校に行ったら知識を学べる』『成功者の話を聞けば何かを学べる』と思い込んでいる。

私は絶対学びになんか行かない。

しかし、子どもから学ぶ。子どもたちは、本能というものを持ってるからである。本能のまま遊んでいると、自分の本能が磨かれていることを実感できるのである」

勘が鋭い人は、「譲る力」が強い

このほか桜井さんは、カンの鋭い人に共通していることがあるという。それは「譲る力が強い」ということ。

麻雀は4人でするゲームなので、弱い人も活かしていかないと試合にならない。そのため桜井さんは場を良くするために、運を譲ることをする時もある。

麻雀は毎回「親」というツモる先手の人がいて、そこから東西南北に回って、牌をツモって、不要と思う牌を捨てていく。川の流れと同じで、上手から下手へ流れていく。

上手の人はいわばゲームメークの役割を担う。一般に自分が勝つためには下手の人が欲しいような牌を捨てずに、止めようとするが、桜井さんは下手の人が動きやすいように、欲しい牌を出すこともするという(欲しい牌が上手の人から出た場合、『なき』と言って、その牌をもらうことができる)。

「だって、川上は川の流れのなかでも1番きれいなはずじゃないですか。川は下にいくほど汚いでしょう。だから上の流れをよくしてあげないと、下が打ちにくい。下が楽になるように、楽になるように打つ。それが回り回って自分に返ってくるんです」(『運を超えた本当の強さ』)

こうした流れを知っているからこそ、譲ることの意味とそれができる強さが分かるのかもしれない。

これは日常でいえば、上司が部下に仕事の手柄を譲る。あるいは電車で席を譲るといったことになると桜井さんはいう。日常生活のなかで譲る力をつけることができるのだ。

「得る力より、譲る力のほうが大きい。譲る力のほうが強い。つまり自分が強くなければ、譲ることができないということだ。生きることで精いっぱいだったら、誰も譲れないだろう」

そしてこうもいう。

「本当に強いやつは自分の運を減らすところから始める」と。

「だから会社でも上の人になればなるほど、譲らなければならない。『勝ち組』と呼ばれているほど、もっと譲らなければいけないのである」

なぜそうするべきなのだろうか。

それは人類が生き物として生まれてきてから、営々と続けてきた営みの源泉がそこにあるからだ。

「あなたは突然生まれたのではない。人類が生まれた何十年も前から延々とつながってきた命である。あなたはその命の永続性のなかで生きている。続いている命の1つでしかないのだ。だから、私たちは命を後世に残していかなければいけない。この世に生まれた責任は、授かった命を絶やさないことである」(『カンの正体』)

人類はいわば命の譲り合いで続いてきた。それは生き物の自然の営みだ。だからこそ自然のカンを取り戻そうとすれば、譲るということが大事になってくるのだ。「命の連続性の大切さを肝に命じておけば、いろいろな判断で間違うことがない。まっとうな生き方からはずれることもないだろう」。

閃いた時には、その閃きをそのまま受け取る。閃いたことを実行する

二代目経営者を対象にしたコンサルティングを行なっている経営コンサルタントの二条彪さんも、経営者の判断は最終的に勘で決まるという。

二条さんによれば、勘で大事となるのは、自分が閃いているかどうかをちゃんと自覚すること。

桜井さんと同様に、二条さんも勘は誰もが持ってるという。

問題は「多くの人は閃いているんだけども、自分が閃いていることを自覚できてない」(『経営の秘鑰』〈以下同書〉)ということ。

勘を磨くためにはどうすればいいのだろうか。

「閃いた時に、その閃きをそのまま受け取る、素直に受け取ることが大事」で、「閃いて自覚することを繰り返していくこと。そして閃いたことを実行すること」だと。

「行動した結果、それがうまくいかなければ、『今回はうまくいかなかった』と学習していく。そして重要なことは「その時。『今度はこうしよう』『ああしよう』と欲をかかないことなんです」

では欲をかかないためにどうするかというと、失敗を「しくじりボックス」に入れるのだそう。それではその閃きが錆びついてしまうのではないかと思ってしまうが、人間はよくできたもので、そうはならないという。

「しくじりボックスに入れておくと、次に閃いた時に、自動修正がかかっていく」のだ。

「そういうことが繰り返されて、閃いた勘で行動すると、だんだんいい結果をもたらすようになっていく。自動修正されて勘が当たるようになっていくのです」

人は勘を働かせてうまく行かないと、すぐに「どうしてだろう」と思い、考えてしまうが、二条さんによれば、そう思っても「その答えは絶対と言っていいほど出てこない。だから『しくじりボックス』に入れる」のだと。

その一方、「なぜだろう?」と疑問符をつけることも大事だと話す。

ポイントはその”塩梅”。

疑問を残さないと、自動修正がかからないし、「なぜだろう」と考えすぎると答えが出なくて悩んでしまう。

そうやって「悩むと、悩むのが得意になっちゃうんです」。

その塩梅を見つけていくのは、普段の気付きが役に立つ。

二条さんは、勘を鍛えていくためには、「日常の小さな変化を見逃さないようにすることが大事だ」と述べる。

「今日の天気は昨日と比べてどうだ」とかに始まり、路端の草木、雑草の変化など、ちょっとした変化に目を向けていくのだ。

気づきの鍛錬場として、二条さんがとくに勧めるのが、コンビニ。

コンビニは、季節や時代の要請、地域のイベントやニーズに応じて商品を入れ替えていて、日によっても売り場の様子がガラっと変わったりしている。その変化を知り、なぜ変わったのかを推察するだ。

二条さんはほかに、「テレビの情報番組も気付きが多くて勘が磨かれる」という。そこで重要なことは、「なぜ売れているのだろ」「話題になってるのだろう」と考えること。でも、考え過ぎてはダメだ。

分からない時は、心のなかの「なんでだろうボックス」に入れておく。するとどこかのタイミングでいろんなことがつながっていくのだそう。

小さな変化に気付き、そこに「何故だろう」と仮説を立てる。でもその「なんでだろう」にこだわりすぎない。ほどよい”塩梅”が勘を鍛えていくのだ。

勘を活かすには、自分のタイプを知る

一方、心理ジャーナリストの佐々木正悟さんによれば、勘(直感力)は「創造力と記憶力の掛け算」だそう。

何か微妙な変化を感じ取った時に、その変化をどう予兆として精密に膨らましていけるかという想像力と、さまざまなパターンとして記憶された経験知を合わせた時に、高度な直感力が働き、行動となって表れるという。

想像を精緻に膨らますことができるかは、ある事象に対してどれだけ詳しく知っているかという理論理屈も必要だ。また同じようなことを体験した時の結果の経験知を貯めておく記憶力も必要になる。

佐々木さんによれば、勘の鋭い人にはこの想像力を活かす「想像力タイプ」と、「記憶力(経験知)」を活かすタイプがあるという。

想像力タイプの代表者がアップル社の創業者である故スチーブ・ジョブスさん。ジョブスさんは、iPod やiPhone を開発した時も、誰もが想像しなかったようなものを直感的に形にして世に送り出した。彼のようなタイプに共通しているのは、「これだ」というターニングポイントを直感的に見つけると、非常に強引に推し進め、妥協しないということだ。

これに対して驚異的な記憶力を武器に、直感力を働かせて成功する人たちもいる。その代表例が、プロの棋士。これは将棋という世界がある程度想像性を制限されてしまっているため(ジョブスさんのように自由にものをつくる必要がない)、当然と言えば当然だ。

ポイントは自分が、想像力を膨らますタイプなのか、記憶力を活用するタイプなのかを見定めること。

たとえばものづくり系の会社であれば、想像力を伸ばして勘を鍛えるほうがヒット商品を生む可能性が高くなるし、取引先の選定、企業合併などについては、記憶力をベースにした勘を鍛えておいたほうがいい。

ビジネス書のタイトルから内容を想像する

佐々木さんによれば、前者の想像力タイプにお勧めなのが、書店などで本のタイトルから内容を想像すること。最近の本はタイトルで
注目を引こうとする傾向が強く、手にして中身を開くまでなかなか内容が想像できないものがある。とくにビジネス書は、忙しいビジネスパーソンを相手にしているので、一瞬で目を引くようなタイトルが付けられていることが多く、勘に訴えるタイトルになっている。

そこでタイトルから書かれている内容を想像して、想像通りか否かをチェックしてみるのだ。

佐々木さんがもう1つ勧めているのが、ミニ株の取引だ。

株式は価格が上下するリスクがあるが、ミニ株ならそれほどの痛手を受けずに、自分の勘を鍛えることができる。株式の正確な価格を当てることは難しいが、PER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)などのデータや知識を活用しながら、株価を読んでいくことは、勘を鍛えることに役立つ。

株価を五感だけで当てることは、多分桜井さんでも難しいだろう。でも知識やデータを使えば、大きくはずれるリスクも減ってく。
知識やデータは勘を使う際の補助線のようなもので、あるとないとでは、勘の働き方が違ってくる。データを見聞することから閃いたことを実行し、経験知を積み上げていくことで、勘が磨かれ、予想のブレが小さくなっていくはずだ。

勘について、佐々木さんも桜井さんや二条さんと同様に語っているのが、「小さな変化に気付く」ということ。とくに人間の脳は本来リスクに対しては高い感度を持っている。リスク感度を高めておけば、大きな間違いや失敗を起こしたり、巻き込まれる可能性は低くなる。

佐々木さんが勘を鍛えるために勧めるのが、「人間観察」だ。

たとえばいつも2 人一緒にやってくる担当者が1人だけで来たり、服装や顔色が違っていたりなど、よく見ておくと気づくべき変化は結構あるものだ。

とくに企業であれば、取引先の変化は、倒産や合併など自社の事業の存亡に関わってくることもある。勘を働かせて先手を打ったおかげで、大事に至らずに済んだ、大事故に繋がらずに済んだという話は枚挙に暇がない。

情報やデータが飛躍的に増えるなか、どのデータや情報を的確に選択し、経営や事業に活かすべきか。日々、瞬時瞬時に問われる時代となってきた。新型コロナの世界中での蔓延が示すように、データ扱いに優れた先進国でも対処の勘所を間違うと悲劇的な事態を引き起こす。ビッグデータ時代だからこそ、データや数字に振り回されないよう、日頃から「勘」を鍛えておく必要がある。

まずは自然体を知り、日頃の小さな変化に意識を向けることだ。

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