COLUMN ビジネスシンカー

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2020.06

ポストコロナ時代の羅針盤
知って目からウロコ!
開疎化の時代の産業集積入門

なぜ山形の天童は
将棋駒のまちとなったのか

日本の産業集積地をみていくと内職文化が特産品を創り出している例が多いようだ。経済産業省は地域で一定の歴史、技術をもった特産品を日本の伝統的工芸品として指定しているが、そのなかには地域の人々の内職技術と文化から花ひらいたものも多くある。

山形県天童市の将棋駒もその1つ。天童の将棋駒は江戸時代末、上野の国(群馬県)から、出羽の国(山形県)高畠に移封された織田氏が、その所領の3分の2が飛び地となっていたので、これを所領交換で天童に集中させた。しかし凶作が続き、藩の財政が困窮、家臣に将棋駒の内職を積極的に奨励したのが始まりだった。藩士の中には、武士が内職をするということに抵抗を持つ者もいたというが、内職奨励の命を受けていた藩士の吉田大八が「将棋は兵法戦術にも通じるので決して恥じることではない」と諭し、将棋駒づくりを勧めたといわれている。

当時の将棋駒の製法は米沢藩からもたらされたと言われ、その米沢藩は大阪から学んだとされている。将棋駒づくりは各地でそれなりに行われていたのだ。ただ多くはその藩内で流通する程度だった。

天童の将棋駒づくりが産業化するのは、明治維新以降。武士としての奉公先を失った旧下級武士たちが、その身につけた内職の技を生かして、木地づくり、駒書きなど、分業体制を整えていったことが始まりとなる。

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