COLUMN ビジネスシンカー

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2020.06

ポストコロナ時代の羅針盤
知って目からウロコ!
開疎化の時代の産業集積入門

小学生が
「書き子」として弟子入り、
量産化を下支え

当時は鋸と鉈による手作業だった。その手作業も玉切り、大割り、荒切り、小割りと一枚一枚仕上げるので、非常に手間と時間がかかり、大きさや形も不揃いだったようだ。そこで機械化を進める話が持ち上がり、明治末から次第に足踏式や動力式の木割り機械などが考案されていく。

駒書きについては、長らく徒弟制度が続いていた。しかし大正から昭和時代に入ると小遣い稼ぎになるとのことで、次第に小学生が弟子入りして「書き子」となって、大量生産化を支えていく。

こうして明治から大正時代までに機械化・電動化が進み、本格的な大量生産を実現していくが、天童の将棋駒は書き駒中心で、当時東京や大阪でつくられていた彫り駒の高級品はまだ天童にはなかった。

状況が変わったのは満州事変以降だった。人々の暮らしに軍靴の足音が近づくにつれて外地に向かう兵隊の慰問品としての将棋駒の需要が急増したのだ。こうしたニーズに大阪の業者が押駒(スタンプ駒)を生みだし、生産するようになる。ところが需要に追いつかず、一部を天童に委託するようになった。天童は押駒を大阪より低価格で提供できたので、次第に天童産の将棋駒が日本全体に行き渡るようになった。

こうして高度成長期に天童の将棋駒は最盛期を迎える。その後、天童では彫り駒も生産するようになった。東京で修行を積んだ職人が技術を持ち帰り、書体に工夫を加え、誰でも内職できるように工夫し、彫り駒の底上げを図った。当初は書き駒の普及品の天童駒のイメージが強く、苦戦をしたが、つげの木などの高級素材を使ったりして、木地から見直し、彫り駒の品質改善に努めると次第に彫り駒の天童のブランドが浸透、現在では7割が彫り駒となった。

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