COLUMN ビジネスシンカー

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2021.01

曖昧で不安なコロナ時代を生き抜くための
2つの思考法
アート・シンキングと
ネガティブ・ケイパビリティ

アートをアートたらしめているもの
それは「解釈が入るか」

そのアートにはどのようなものがあるのだろう。

一般にアートは人間の感覚に対応する3つのアート分野がある。

1つが視覚に対応する「視覚芸術」。いわゆる美術で、絵画や版画、彫刻、写真、書などが入る。2つ目が文学、詩などの「言語芸術」。3つ目が「音楽芸術」である。

アートは人間の感覚に対応するが、触覚芸術、嗅覚芸術、味覚芸術という分野はない。こういった「直接的に体に影響するもの」はいまのところ芸術の対象とならない。なぜか。それは「解釈が入らない」からだ。極上の料理には「料理というよりアート」という賛辞が送られることがあったりするが、あくまで喩えの域を出ない。こうしたうまい、辛い、甘いといった感覚はあくまでダイレクトに脳につながるため解釈が入り込まないのが理由だ。

アートにはそれぞれ評論家がいる。それぞれその解釈のための論理構造を理解している人たちだ。とくに現代美術においては評論家の存在は重要で、評論家の言辞で作品の価値が一変する場合もあるし、後々評価が変わる場合もある。

有名な例がマルセル・デュシャンが1917年にアメリカのアンデパンダン展に出品した「泉」という作品だ。泉は市販の便器を持ち込んでそこにデュシャンのサインを書いただけのものだ。アンデパンダンは英語ではインデペンデント、すなわち独立を意味するフランス語で権威を否定する自由な発表の場として催されていたが、デュシャンはそのアンデパンダンの限界を突破すべくこの泉を持ち込んだのだった。案の定、デュシャンの泉は展示されなかった。

そこでデュシャンは一計を案じ、雑誌にその経緯を投稿し、「権威から切り離されたアンデパンダン展で、主催者の独断で作品を撤去するとは何事であるか」と批難した。実はデュシャンは確信犯で、ここまでのシナリオをつくっていた。というのもデュシャンは無名の新進の作家ではなく、名の通った作家であった。そのためアンデパンダン展には偽名で作品を持ち込んだのである。

残念ながらこの自作自演がわかり、デュシャンの作品はその後キワモノ扱いを受けることになるが、1960年代になるとコンセプチャルアートが台頭、「新しいアートの地平を拓いたランドマークである」とデュシャンの泉は俄然評価を受けたのだった。

これは現代アートに限ったことではない。ルネサンスやロマン主義、新古典主義などの過去の名画、名作と呼ばれる作品の評価が変わることもある。

文学においても当然評論家の役割は重要だ。

よく文学作品が受験問題などに使われ、書いた本人が問題を解けなかったという笑い話のような逸話が出てくるが、前出の三浦さんによれば、これはあって然るべきことなのだという。つまり文学作品には文芸評論という分野が確立しており、そういった評論家が作家自身が気づかなかったことを分析、抽出することが往々にしてあるからだ。

先に述べた料理についても、いまのところアートの分野としては確立されていないが、的確な料理評論家が増えていけば、アートとして確立する可能性はある。

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