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【Basic Selection】日本人なら知っておきたい「中興の祖」たちのしごと

 人手不足や市場環境の変化により、事業の売却、再生に取り組む企業が増えている。
 いまは組織の再建を専門に請け負う企業やコンサルタント、専門弁護士などが多数誕生しており、大企業などの場合は国の再生機構などが税金を使って再建に乗り出すこともある。民事再生法など新たな法律が生まれ、再生再建の選択肢も増えている。再建は確実にシステマティックになり、挑戦しやすくなっている。
 だがやはり事業の再生や再建は簡単ではない。長年染み付いた因習やしがらみを断ち切り、組織を立て直すことは、創業者以上の苦難を強いられる。創業者のようにゼロからのスタートではなく、マイナスからのスタートだからだ。
 歴史のなかには「中興の祖」と呼ばれる人たちがいる。
 傾いた組織を立て直し、経営を再び再浮上させた人々だ。彼らは単にマネジメントに明るいだけでなく、危機に際しての胆力、統率力、そして忍耐力など高い人間力を持っていた。そうでなければ後々中興の祖として名を残すことはできなかった。数多の再興チャレンジャーのなかでなぜ彼らだけが中興の祖と呼ばれるのか―。

東芝、IHIを立て直した土光敏夫さん、
アサヒビールの樋口廣太郎さん
…燦然と輝く中興の祖たち

 日本のビジネス史には、数多くの中興の祖がいる。
 中興の祖と聞いて、元石川島播磨重工業の会長の土光敏夫さんや、旧住友銀行からアサヒビールの社長となって、今日のアサヒビールの基礎を築いた樋口廣太郎さん、デジタルカメラの普及でフイルム市場が消失した富士フイルムを化粧品や医薬品で立て直した古森重隆さん、三井物産から信越化学工業に転じ、同社を世界的化学メーカーに押し上げた金川千尋さんの名を挙げる人は、確実に昭和世代だろう。
 とくに土光さんは、その辣腕ぶりと質素な生活の対比が話題となった人。石川島播磨重工業(現:IHI)、東芝などの大メーカーの再建を成功させ、後に行財政改革の調査会長となり、行財政の合理化に腕を振るった人物だが、テレビ局が自宅の夕食を撮った際、主菜がめざしと菜っ葉だったことから「めざしの土光さん」と呼ばれるようになり、イメージが定着した。合理化の指示役が華美な生活を送っていてはとても改革などは進まない。
 土光さんは、一度検事に出頭を求められ勾留されたことがある。朝鮮戦争後、不況に陥った造船業界に政府が利子補給を行ったことに絡んで、リベートが政界に流れたという、いわゆる「造船疑獄」が起き、その疑義がかけられたのだった。勾留中は壁に向かって法華経を唱え続けたが、それは全く土光さんの日常であった。土光さんは石川島播磨の会長になっても電車通勤を通し、それは東芝、のちに財界トップである経団連の会長になっても続けられた。
 その徹底した質素清廉さに、取り調べをした検事が感銘を受けるほどであった。造船疑獄時、早朝土光さんの自宅を訪れた検事は、夫人の「バス停にいます」という言葉に「大会社の会長がバス通勤をするなど」と耳を疑ったが、果たしてそこに土光さんは立っていた。後に検事総長になった伊藤栄樹さんは、土光さんの取り調べを行った人物だが、自身の回顧録のなかで、「感心させられた人が数人いる。それらの人と会うことができたのは、検事冥利につきると思っている。その筆頭が土光さん」と語っている。
 土光さんの姿は、どこか逆境のなかで裂帛の意思で藩政改革を成し遂げた江戸時代の人物に通じるものある。

ジョン.F.ケネディで
逆輸入された上杉鷹山

 中興の祖と言われる人物のなかで、とりわけ現代にも知られるのが、江戸時代に活躍した9代目米沢藩主、上杉治憲(はるのり)である。歴史書や時代小説などでは隠居後の鷹山(ようざん)の名が知られている。鷹山は、2007年に読売新聞が全国の自治体首長に聞いた、「理想のリーダー」のトップに挙がるなど、時代を超えて多くの支持を集めている人物だ。
 鷹山は、日本の経営者の間に広く知れ渡っているだけでなく、世界的にも知られている。むしろ鷹山の名は、海外から逆輸入されて広まったと言うのが正しい。
 その輸入元は第35 代アメリカ合衆国の大統領、ジョン.F.ケネディである。ケネディは大統領として日本に来日した際、「もっとも尊敬できる政治家は誰か?」という記者の問いに、「上杉鷹山」と答えたのである。ケネディが鷹山を知ったのは、内村鑑三が英文で刊行した『代表的日本人』だと言われているが、歴代のアメリカ大統領のなかで最も若いケネディが鷹山を評価したのは、鷹山が世界に先んじて民主主義の原点を唱えていたことにある。
 鷹山は35歳の時に、後継である10 代目藩主、義弟の治広のために『伝国の辞』を書き残している。
 伝国の辞に書かれているのは、

1. 国というものは、先祖から子孫に伝え残すべきものであって、現世の時代の人が私有すべきものではない
2. 人民は国家に属しているのであって、君主が私有するものではない
3. 君主たるものは、人民があっての君主であって、君主のために人民があるのではない

というもので、士農工商が厳格に作用する江戸時代にあって、欧米の先をゆく思想が見て取れる。
 1751年、九州の小藩である3万石の高鍋藩主の次男として誕生した鷹山が、のちに米沢藩の藩主となって活躍しだした頃は、まだアメリカは誕生しておらず、アメリカ誕生に影響を与えたフランスではまだフランス革命は起こっていなかった。イギリスでは議会制民主主義の原点となった「名誉革命」こそ起こっていたが、その恩恵は新興のブルジョアまでで、残りの9割を占めた工場労働者や農業従事者が民主主義の恩恵を受けるのは19世紀に入ってからであった。
 無論、鷹山がこうした欧米の社会情勢を知る由もない。にもかかわらず民主主義的な思想を独創し、とりわけ封建色が濃い米沢藩でこの理念にたどり着き、敷衍し、実行したことは驚嘆に値する。

わずか17歳で背負った600億円の借財
言葉も不自由な病弱な許嫁との結婚

 鷹山が米沢藩再興のために行ったことは数多く挙げられるが、その柱となったのは「財政の再建」、「新産業の開発」、「精神の改革」の3つから成る「三大改革」と呼ばれる政策である。
 1つ目の「財政の再建」は、財政が逼迫しているのであれば当然行うべき施策だ。しかし再建となれば、財政だけでなく、新たな成長エンジンをつくる必要がある。さらに組織が破綻寸前となれば、社員や構成員のモチベーションは下がり、人心はバラバラになる。組織の明日より、我が身の明日ばかりが気になるのは、人として当然の心理だろう。よってその離れ、落ち込むマインドを引き上げ、引き寄せる施策が要るのである。
 実は江戸時代の中期ともなると、全国では財政を悪化させる藩が続出していた。参勤交代による出費や、度重なる自然災害、火災、貨幣経済の進展による基軸米価の下落、あるいは金銭感覚の疎い藩主の野放図な政策と、圧政が主な原因だった。
 そのため信州の松代藩や秋田の久保田藩、熊本の熊本藩など「藩政改革」が各地で断行された。
 なかでも米沢藩は財政破綻寸前で、約20万両、現在の貨幣価値にして約600億円(諸説あり)もの借金があったと言われている。事前にこれが分かっていたなら、果たして鷹山は米沢藩主を引き受けたかどうかも怪しいほどの金額である。
 歴史を遡ると、もともと米沢藩は戦国時代の上杉謙信の血を引く家柄で、全盛期には越後から関東一円を支配していた。その後関ヶ原の戦いで石田三成方についたため120万石に縮小。さらに江戸時代になると跡取りに恵まれず15万石まで減らされていた。ただ小さくなったとは言え、それでも鷹山の出身である高鍋藩とは桁違いの名門藩であった。
 その”桁違いの名門” から、「藩主としてどうか」と10歳を迎えた鷹山に、養子縁組の話が舞い込んだのであった。この不釣合いの縁組には米沢藩側からも異論があったが、当時は取り潰し寸前の状態。米沢藩としても背に腹は代えられなかった。鷹山が600億円の借財の事実を知らされたのは養子縁組の決定後であった。驚天動地とはこのことだろう。さらに許嫁となる米沢藩主の娘、幸姫(よしひめ)は病弱で、言葉もうまく発することができない、いまでいうところの小児麻痺のような身体だったと言われている。
 しかしこの病弱な幸姫との触れ合いが鷹山の決意を固くしたようだった。幸姫のその健気な態度に打たれ、「この藩を改革できなければこの家はお取り潰しとなり、か弱い姫も殺されてしまう。それはさせてはならない」という強烈な思いが芽生えてきたとも言われている。家臣団からの激しい抵抗を受けながらも、大改革を成し遂げた原点はここにあったと言える。

生活費を7分の2に落とす
驚天動地の大倹約

 17歳で元服すると鷹山はすぐに幸姫と祝言を挙げた。そしてその翌年、米沢藩の再建のための誓詞を、春日神社と白子神社に奉納している。
 鷹山は、それぞれ、春日神社には「藩主たるもの『民の父母』であらねばならない」という誓いを、白子神社には「大倹約を行い米沢藩を復興させる」という決意を書いて納めた。
 実はこの誓詞が発見されたのは奉納後90年以上も経てからのことで、これはいかに鷹山の決意が並々ならぬものであったかを示している。つまり孤立無援に近い17歳の青年藩主が、家臣の誰にも知られずひっそりと神社を訪れ、神に誓いを立て、ひとり再興に臨んだのである。
 鷹山はこの誓詞の通り、大倹約令を発令した。その内容は激越なものだった。

1. 従来の行事のなかでも差し迫ったものを一切廃止する。あるいは延期する。あるいは規模を縮小する
2. 参勤交代の行列を思い切って減らす
3. 住居における修理や調度品の調達は、極力差し控えること
4. 食事は一汁一菜とし、盆暮れのみ一汁二菜とする
5. 衣服の普段着は木綿とすること
6. たとえ安い品物でも音信贈答は禁ずる
7. 藩主の奥女中は召使とも9人とする

 日常の食事は一汁一菜、普段着は絹の着物から木綿に、奥女中も50人から一気に9人に減らす……。要は、江戸の米沢藩邸での藩主の生活費をおよそ7分の2とするものだった。月収50万円が14万円に下がるのである。
 現実離れしたこの荒療治に、守旧派の重臣からは、米沢藩の体面に関わると激しい反対が起こったのは当然のことだったろう。
 しかし、鷹山はその反対を一切受け入れず、自ら率先して節約を実行する。鷹山の目線は武士ではなく、その生活を支える農民の目線にあった。
 そもそも藩の莫大な借金の一因は、藩が改易され縮小していくなか、藩士をリストラせずに据え置いてきたことが主因だった。15万石高の藩に50〜60万石に相当する約6500人もの藩士を抱えていたのだ(諸説あり)。これは他藩に比べても圧倒的な多さとされた。藩士を抱える諸費用は実に財政の85%を占めたという。領民のため、藩の生産力、文化向上に使う余力などはなかったのだ。

4時間の守旧派との対峙。
「七家騒動」で形勢逆転

 そんな鷹山に隠居を迫るある事件が起こる。1773年に勃発した「七家騒動(しちけそうどう)」である。
 7人の家臣がよそ者である鷹山に対し「これ以上藩政に関わること止めてもらう」ことや「倹約令をはじめとする政策は、藩士の面汚しなので即撤廃してもらう」ことを迫ったのだ。
 鷹山はこれを徹底して拒否。この時の押し問答は実に4時間に及んだ。やがて埒が明かぬと鷹山が部屋を後にしようとすると、家臣の一人が袴の裾を踏んだ。これは武家社会にとって侵してはならぬ一線だった。これを聞いた養父重定が激怒。守旧派の処分を決める。その結果鷹山に迫った家臣7人のうち、2人が切腹、1人が打ち首。その他が隠居、幽門などの厳罰に処せられたのだ。
 この七家騒動以降、少数派だった改革派が勢いを増していき、鷹山の改革が進んだとされているが、仮に家臣が裾を踏まなければ、立場の危うい鷹山は改革を遂げられず、不遇の死を遂げたかもしれないとも言われている。

士農工商の身分制度を超えて、
武士に新田開拓をさせる

 三大改革の2つ目の「新産業の開発」は、九州高鍋藩という当時の”異国” 出身者である鷹山の視点が存分に発揮された政策だ。
 当時の米沢藩には、明確な特産品はなかった。鷹山は他国との差別化を図る方策として、さまざまな産業を特産品化していった。
 鷹山の考え方は極めて分析的だった。米沢でできるもの、できないものを分けたうえで、付加価値の付くものを選別し特産化を図っている。
 その事例は次のようなものだ。

1. この地方は北限があり、生産できないものは無理につくらない
2. 北限の適用を受けるのは、木綿、茶、みかん、はぜ(ローソクの原料)など。しかしこれらは生活必需品なので輸入する
3. 輸入するためには、この地方でできるものに付加価値をつけ、高付加価値化する必要がある
4. そのためには新しい農業開発を行わなければならない
5. 現在米沢藩で、製品と名付けているものが、果たして製品なのかどうかを振り返る
6. たとえば、米沢から輸出している麻糸は、大和(奈良県)においては、晒に加工されて、越後(新潟県小千谷地方)では、小千谷縮みとして名産品となっている。そういう技術を導入して新たな付加価値を加えた製品をつくるべき

などといった具合だ。
 さらに鷹山は藩の財政を安定させるために、特産品の高付加価値化に加えて、新たな田畑の開墾や治水を勧めていた。
 新田開発は多くの藩で展開されているが、鷹山が傑出していたのは、農民だけでなく藩士に対しても田畑の開墾や治水のための土手修理などをさせたことだ。
 しかも、藩士がその荒れ地に出向いて行うだけでなく、藩士の次男・三男が農村に移り住み、田畑を開墾することも奨励している。これは、ある意味徳川時代の身分制度をも否定する政策である。鷹山はまさに命を賭して取り組んでいた。
 この新田開拓に参加した藩士は、実にのべ1万3000人とも言われている。
 このほか鷹山は、藩内に楮(こうぞ)、漆(うるし)、桑(くわ)など、それぞれ100万本の植物や樹木を植えて産業化を進める「百万本植え立て計画」を打ち出している。これらのうち桑を使った養蚕業はほぼ成功し、また漆の実からつくった米沢藩独自のローソクも江戸で大ヒットし、米沢藩の産業競争力強化に一役買った。

飢饉対策の究極レシピ
『かてもの』

 鷹山はまた度重なる飢饉に備えて『かてもの』という究極レシピ集をつくっている。その対象となる植物は80種にも及び、あわせて味噌や魚、肉の保存方法などについて、実際に専門家が試しながら著したとされる。かてものは、米沢藩内で1575冊が配布された。その後米沢藩はたびたび飢饉に見舞われたが、このかてもののおかげで犠牲者をあまり出さずに済んだとされる。
 さらに山の民を思う心は世紀を超えて米沢の市民を救っている。第2次大戦の最中、食糧難にあえぐ市民のために、米沢市がこれを印刷して配布。市民の食料不足や栄養失調の対策としたのである。

ワークライフバランスの先駆け
介護休暇制度「看病断」

 三大改革の最後となる「精神の改革」は、現在の国家政策に十分通じる施策である。
 鷹山は「民の父母」になるために、領民対して次の3つの助け合いを指針として示している。すなわち、

1. 自ら助ける「自助」
2. 近隣社会が互いに助け合う「互助」
3. 藩政府が手を貸す「扶助」

である。
 鷹山の発想は、単に従来の藩士と農民といった縦軸の階層だけでなく、近隣や近くの集落といった面の軸を組みわせたことに独創性がある。鷹山はこの縦軸と面の軸を融合し、さまざまな制度をつくっている。
 その1つが、「看病断(かんびょうことわり)」という制度である。これは藩士の家族が病に倒れた場合は、届出だけで休んで家族を看病ができる制度。いまでいうところの介護休暇制度である。さらに鷹山は、一人暮らしの老人や、病弱な家族がいてもその面倒を見ることができない幼い子どもだけの家庭などにも、地域単位で相互に支え合うような仕組みもつくっている。
 鷹山は福祉に厚い人だった。とくに幼い子どもと高齢者を大切にしている。老人と15歳以下の子どもを持つ家庭には補助金を支給する制度を整備。また高齢のため働けず、肩身の狭い思いをしていた年寄りたちには、藩内に多い池や沼を利用して鯉の養殖をすることを推奨した。この施策は同時に栄養不足になりがちな領民の新たな栄養源にもなっている。また養父の重定の古希には、藩内の70歳以上の老人に酒樽を振る舞い、自身が古希を迎えた時にも振る舞っている。重定の時に738樽だった酒樽は、自身の古希では4560樽まで増えていた。鷹山の施策によって荒れた農村に人が増え、長命の領民が増えた証だった。
 鷹山の政策の基本は助け合いだが、未来という時間軸からも助け合いを考えていた。将来の飢饉に備えて籾を備える「備籾蔵(そなえもみぐら)」がそれである。これは毎年農民から収穫した米を籾のまま地域毎の蔵に備蓄させ、その籾に対して藩が利息をつけて返す制度で、20年間で15万俵の米が計画的備蓄される。備籾蔵は災害時の備蓄だけでなく、今日でいう地方銀行や信用金庫の役割も果たしていた。
 こうした政策の最中、1782年から88年まで「天明の大飢饉」が東日本から北日本一体を連続で襲う。米沢藩は収穫が例年の2割まで落ち込んだ。備籾蔵はまだ十分完備されていなかった。だが鷹山は早い段階でこの飢饉を予測し、比較的被害の少なかった酒田や越後諸藩からの米の買い入れを行い、そこから粥をつくり、藩士・領民の区別なく、一日あたり、男米3合、女2合5勺の割合で支給したとされる。鷹山の「民の父と母」としての姿勢が見てとれる施策の1つである。

引退後に発揮される
鷹山の改革

 鷹山の改革は全国280藩の見本と称揚されたが、改革は決して順調に進んだわけではなかった。
 たとえば100万本植え立て計画では、漆でつくったローソクは始めのうちは良かったものの、西日本からはぜを使った着火の良い安価なローソクが出回ると市場から駆逐されていく。100万本の投資は、やがて借金に変わってしまった。
 また徐々に改善されていった財政も、天明の大飢饉に遭い、石高が一気に落ちてしまうと、減っていた借金が30万両まで増えてしまった。
 これら一連の出来事で、自身の咎を責めたのか、鷹山は35歳の若さで引退している。しかしながら専門家の見方では、ここから鷹山の本当の改革が始まったと言われている。
 より身軽となって、藩の各地を観て回ることができるようになったからだ。
 実際鷹山はお忍び姿で藩内を歩き、水戸光圀のように住民とのふれあいを楽しんでいたようだ。鷹山はまた藩の住民のリテラシー向上に力を入れた。藩校をリニューアルして、より多くの住民が学べるように分校を充実させている。米沢藩では農民のほとんどが読み書きに不自由はなかったという。

「民が傷ついたら、
我が身のこととして
感じ取るのが君主」

 鷹山が魅力的なのは、運命に翻弄されながらも、それを正面から受け止め、誰よりも藩の領民のことを自身のこととして捉える高い”共感力” があったからと言える。
 それはやはり10歳で出会った幸姫の存在が大きい。鷹山は幸姫から学んだ、か弱きものへの眼差しと優しさが、米沢藩の治世の原点となったようだ。鷹山は、江戸の藩邸にいる幸姫に会いに行った際には、言葉のおぼつかない彼女と、人形などを手にしてそれこそ童心に返ったようして遊んだと言われている。
 さらに江戸で14歳から元服までを指導した儒学者・細井平洲の影響も大きかった。
 細井はまだ幼さの残る鷹山に対してこう繰り返した。
「民が傷ついたら、それを我が身のこととして感じられないようでは、藩主の資格はありません」
 鷹山は、1822年72歳(満70歳)で逝去したが、米沢藩の借金が完済されたのはその翌年であった。鷹山はまさに生涯を賭けて米沢藩再建を完遂したのである。

上杉鷹山以上の
手腕をみせた山田方谷

 上杉鷹山と並ぶ中興の祖として挙げられるのが、備中松山藩の山田方谷(ほうこく)だ。鷹山が東のスーパースターなら、方谷は西のスーパースターと言っていいだろう。
 とくにその財政再建術は、「奇跡」と呼ぶにふさわしい妙手ならぬ「快手」と呼べるほどで、経営者のなかには、鷹山より方谷の手腕を評価する人もいる。
 というのも方谷は、備中松山藩5万石が抱える借金10万両(およそ300億円)を約8年の改革で完済しただけでなく、剰余金10万両までつくったのだ。
 さらに、方谷は藩主という絶対権力者ではなかったどころか、そもそも武士でもなかった。

農民から名字帯刀を許され、
藩校の校長に

 方谷は1805年に備中松山藩の豪農の子として生まれた。5歳から新見藩の儒学者丸川松隠(しょういん)の私塾に学び、14歳の時に母親を、翌年に父親を相次いで失い、学問を断念し、商売を始めた。
 ところが、方谷の才能を惜しんだ松山藩主の板倉勝職(かつつね)が奨学金を出して、藩の学問所で学ばせたのだ。その後はめきめきと才能を発揮。25歳で農民出身でありながら、名字帯刀を許され、藩校「有終館」の教頭に引き立てられる。
 当時藩校で学ぶ学問は朱子学だった。朱子学とは正しい順序で学ぶことで、正しいことにたどり着くことが出来るという考え方。物事には上下があり、それを正しく守っていくことが重要であるという、徳川時代の身分制度維持にはうってつけの学問でもあった。
 しかし京都などで何度か遊学する機会を得た方谷は、次第にそこで触れた陽明学に惹かれていく。陽明学は身についた知識は実際に使って、世や人のためにならないと意味がないとする「知行合一(ちこうごういつ)」という実学的な理念に立脚した学問で、藩の惨状を知る方谷の心を捉えた。方谷はついに江戸まで出て、日本の陽明学の泰斗である、佐藤一斎がいる「昌平坂学問所」に入所を果たす。そこで方谷は佐久間象山と並ぶ「二傑」と称されるほどの才能を開花させた。
 江戸で世の中のためになる陽明学を修めた方谷は、備中松山藩に戻ると有終館の校長に上り詰める。その有終館で方谷に学んだのが、後に備中松山藩の藩主となる板倉勝静(かつきよ)だった。

公称5万石は
実質1万9000石

 やがて藩主となった勝静は方谷の才能を見込み、藩の財政の一切を任せるという元締役と吟味役の兼務を命じた。ただこれには藩士から激しい抵抗を受けた。いかに優れた学者であっても、農民出身者がいきなり藩の財政の一切を取り仕切るということは、藩士にとって受け入れがたいものだったからだ。
 この抵抗には、藩主・勝静が一喝する。「以後方谷の言葉は私の言葉と同じだと心得よ」と。
 この力強い言葉を受け、方谷は早速改革に取り掛かる。
 まず調べたのが、借金の総額と石高だった。とくに石高は公称5万石であったが実質1万9000石、半分にも満たない石高であることが判明。つまりこれを銀に置き換えて、江戸藩邸の維持費や国許でかかる諸費用などに賄うと、ほとんど残らなかったのだ。借入金は一切減らないところか、逆に利子が増えていく状態だった。
 そこで方谷は1850年に、鷹山同様に倹約令を出す。藩の領民に対して、衣服は上下、絹を用いずに木綿を着用することや、男女の髪結いは自分でするようにするなど、私生活の細かい部分まで定めた。実はこの倹約令には狙いがあった。というのも庶民はもともと質素な暮らしをしていたため、実質影響を受けたのは藩士たちだったのだ。もちろん方谷自身も質素・粗食を率先垂範し、給与の一部を返上している。

米の価格差を利用し、
年間4000両から
7000両の利益

 一方で『理財論』を著すほど財務に明るかった方谷は、一般の藩の財務家にはない大胆な政策を打ち出す。米の市場に最も近い大坂に置かれた備中松山藩の蔵屋敷を廃止した。蔵屋敷の廃止は大坂商人にとっては痛手だった。それまではそこに米があるためにいわば言い値で取り引きができたからだ。
 方谷は蔵屋敷を廃止し、藩内で保管することで、年貢米を相場の最も高いところで売り出すことができた。負債を、その高く売れた現金で払うようにして、減らしていったのである。この方法はまた蔵屋敷の経費削減にも貢献した。年間でおよそ1000両を減らしたと言われている。また蔵屋敷は藩内40ヵ所に置かれ、飢饉の際の義倉の役目を果たした。
 その一方で米の相場を見定めるために、新たに領内の年貢米などを一元管理する「撫育局(ぶいくきょく)」を設けた。方谷は米相場を見て、一元管理された米を売買。年間4000両から7000両の利益を上げている。

良質の砂鉄で農具をブランド化
ブランド商品を一元管理

 方谷はまた産業振興に努めた。特産品に「備中」の名をつけ、とくに良質の砂鉄が採れることから農具の生産に力を入れた。中でも三本歯の「備中鍬」は深く土に入るということから、飛ぶように売れ、松山藩を代表するブランド品に成長した。その他にもタバコの「松山葉」、銘菓の「柚ゆべし餅子」などもブランド化した。また漆や茶などの生産も奨励した。これらの特産品も新設の撫育局で一元管理することで、より市場価格の高いところで売りやすくし、藩の財政再建に大きく寄与したのだった。
 さらに方谷はこれらの特産品は大坂ではなく、遠い江戸に送っている。これは大坂商人による中間搾取を警戒しての策で、大阪商人の抜け目なさを嫌ったとも言えるが、いまで言うところの”直販体制” を取ったとも言える。

旧藩札を河原ですべて焼却
藩札の信用を回復

 方谷の財政再建の極みは、「旧藩札の回収焼却」である。財政難に陥っていた備中松山藩では、偽の藩札が乱造され藩札の価値がどんどん下がり、藩経済は混乱していた。方谷はこの藩札を領民から買い取り、河原ですべて焼却した。そして新たに「永銭」を藩直轄で印刷し、流通させることで信用を回復させた。この買い取りが可能となったのも方谷の殖産政策によって、藩に現金(銀)が積み上がっていったからだ。

至誠惻怛、
士民撫育を基本として、
7つの施策をまんべんなく

 方谷は、鷹山の手法を高く評価しており、同様にその政策も多方面に渡って取り入れている。鷹山の場合はまず倹約からスタートし、籾殻の積立てや殖産政策、新田の開墾、学業の振興、いまでいう介護制度などを整えていったが、方谷も「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、藩士・領民全体を物心ともに幸福にする」という「至誠惻怛(しせいそくだん)」、「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という「士民撫育(しみんぶいく)」を基本とした、「産業振興」「負債整理」「藩札刷新」「上下節約」「教育改革」「軍政改革」「民政刷新改革」という7つの政策テーマを掲げ、まんべんなく実行していることが特徴だ。
 最後の軍政改革、民政刷新改革は、方谷らしい時代のテーマであった。方谷の活躍した時代は幕末から江戸への動乱期であり、方谷は早くから江戸幕府が持たないことを予言していた。改革の大方針はブレさせず、時代の変化を読みながら、細やかな目配りでことを進めていったのだ。
 方谷がビジネスリーダーや首長に評価されているのは、自分の立場をよく弁えており、藩主のアドバイザーに徹していることだろう。方谷によって備中松山藩が復興し、石高以上に隆盛すると(一説には12万石とも言われている)、藩主の板倉勝静は、幕府の筆頭老中まで上り詰めている。
 その間も、幕府政治に翻弄される勝静に対して、大局からアドバイスを与え、判断のブレる勝静に対して、決然と言い放つ時もあったという。

主君に藩主引退を進言、
領民の命を救う

 徳川慶喜の老中となっていた勝静は維新後の戊辰戦争で、官軍と戦うことになったが、方谷は官軍と戦うことより、領民の救済を第一とし、勝静に隠居を求めたのだった。そして新しい藩主を立てて城を開城することを朝廷に伝え、領民を救っている。
 こうした的確なアドバイスや財政再建の手腕が評価され、明治政府が樹立してからは、幾度となく政府の役職に入ることを求められたが、方谷はこれを拒否。後年は教育に情熱を集中させて、有終館や方谷自身の私塾、明治以降に創設された「閑谷学校」などで多くの弟子を育て、幕末から維新、明治政府の骨格を担う人材を輩出させたのだった。

改革は急いではいけない
改革は10本くらい柱を立てる

 方谷は自身の改革のエッセンスについてこんなことを語っている。
 方谷が財政改革を成し遂げた後、長岡藩の河井継之助が訪ねて来る。河井は幕末、戊辰戦争で幕府軍に立ちながら、会津と同盟関係にあった長岡藩の領民の犠牲を最小限に食い止めた傑物として知られている。
 当時の河井はまだ若く血気盛んだった。そんな河井に方谷は改革の極意として次のような内容を語っている。

1. 改革というのは絶対急いではいけない。最低15年はかかる
2. 15年の間に古い者は死ぬ。そして新しい若者が成長する。世代交代が行われない限り政治改革などできない
3. 改革の仕事は10本くらいの柱を立てるのが良い。そして1本ずつ着実に実現していくことだ
4. 改革には根気が要る。血気にはやる者はよく脱藩などをして改革を進めようとする。それは駄目だ。あくまで藩に残って、自分の志す改革を藩内からはじめることだ

 そして、さらにこう述べる。「君が私のもとで勉強するとしても、何も私の言うことを全部鵜呑みにする必要はない。私から学ぶところは学び、学んではならないことは学ばないほうがよい」
 先生だからと言ってすべて真に受けず、是々非々を自分で判断しなさいという教えであった。

薪を背負い読書する二宮尊徳は
実学的で利に聡い

 もう一人、圧倒的なパワーで数々の藩や没落した農村を改革し立て直した人物が、薪を背負い読書をする児童像で知られる二宮尊徳(金次郎)だ。
 尊徳の幼少期のこの像はいまでこそ、「交通事故を引き起こしかねない」という理由でほとんど見かけないが、昭和時代であれば、大概の小学校の校庭に置かれていた。
 この薪を背負った金次郎像は、二宮尊徳の幼少期を再現しただけでなく、彼が常に実学的な態度で物事の解決に臨んでいたことも意味している。
 実際彼の指示は、実学的でわかりやすく説得力があった。
 尊徳が最初の再建請負場として入ったのが、生家のある小田原藩の家老の服部家である。そこで数々のエピソードを生んでいる。

女中に薪の正しいくべ方を教え
資金の作り方を伝授

 ある時尊徳は、噂を聞きつけた小田原藩士の女中から小遣いの借用を申し込まれる。その時尊徳は、「いかに返すか」と聞いた。すると女中は「給金」と答える。しかしその給金はすでに親元の借金の担保になっており、返す当てにはならなかった。尊徳は彼女にこんな話をした。
 「まず新薪を主人からこれまでの平均量を請け負う。そして薪を節約しなさい。はじめに鍋の炭を削ぎ落とす。薪の燃やし方は煙を出ないようにし、全部燃やす。薪は3本にして鍋の底に丸く当たるようにする。火は鍋の周りからはみ出ないようにする。また火が消えた後の火力も利用すること。使い切った消し炭も利用すること」
 このような具体的指示を出して戻した後も、尊徳は彼女のもとへ足を運び、実際に現場のやり方を確認していたのだった。その時、鍋の炭が消しきれていなかったのを見て、さらに尊徳はこの炭を買うことを申し出る。やがて女中は炭を消し去り、最も効率的な火力で薪を節約することを実現する。女中は節約された薪を主人に売ることで、給金以外の収入を得たのだった。この成果を見て、ようやく尊徳は彼女に小遣いを貸したという。
 いまの時代はとかくスピードや大きなビジネスプランを描きがちだが、どんなビジネスでも基本をしっかり守り、一歩一歩着実に歩むことは、あらゆるビジネスの基本である。
 尊徳が掲げる理念に「積小為大(せきしょういだい)」という言葉があるが、まさにこれを表わすエピソードである。そこには、見る人が見ればまだまだ改善・改革の余地があるということ、また何事も徹底して考え抜く、考え続けることの重要性を示している。

買い戻した田畑を小作に出し
自分は野菜や薪を売りさばく

 尊徳は1787年小田原藩の農村の農家に生まれた。もともとは裕福な豪農だったが、洪水で田畑を失い、病弱の父に代わり熱心に働き、田畑を開墾していった。
 しかし14歳で父を失うと、幼い兄弟2人と母を助けるために山で柴を刈り、日没後家でわらじをつくっては売りさばいていた。学問好きの尊徳は、その合間を惜しんで儒教の経典である四書の1つで、人間の徳について著した「論語」や自己修養や人々の救済について記した「大学」を熱心に読んでいた。しかしその母も16歳で他界。残された兄弟3人は離散し、尊徳自身は伯父の家に入って世話になる。
 伯父の尽力もあり、やがて尊徳はコツコツと貯めたお金で、失った田畑を買い戻していった。しかし尊徳は買い戻した田畑を自分で耕作せずに、小作に出す一方、自分は小田原城下に出向いて、薪や農作物を売っていた。なぜそうしていたかというと、田畑には年貢がかかるが、小規模の農作物の販売や奉公には年貢がかからなかったからだ。
 この利に聡い尊徳の噂が、小田原藩の家老、服部家の耳に入ったのだった。
 服部家の財政再建を託された尊徳は、まず徹底して問題点を調べ上げる。邸の隅々まで調べ、肥溜めの中まで覗き込んだと言われている。
 その上で再建計画をつくり、5年計画で借財の返済を任された。尊徳は服部家に奉公人として入るが、その前には、自分の土地などを処分している。尊徳は不退転の決意で門をくぐったのだ。尊徳はこの時、「別世界に入るのだから後戻りはできない」と表現している。
 それだけに、時に約束を果たせない重臣に対しても尊徳は容赦なく大声で叱責したと言う。

5つの徳を守って
仕法を実践する

 尊徳の再建方法は、「報徳仕法」と言われ、後の藩や農村の再興の基本となっている。
 報徳仕法は「至誠(まっすぐで思いやりのある心)」を基本に、「勤労(よくはたらく)」「分度(身分相応に暮らす)」「推譲(世の中のために尽くす)」を原則とした行動だ。
 きわめてシンプルな行動指針であるが、その実現はなかなか難しい。とくに「分度」は、極めて当たり前のことのように思えるが、メンツを重んじる武家では、実現はかなり難しかった。
 実は鷹山、方谷もこのメンツこそが武家の改革を阻む同根とみていた。武士のメンツ―。そこから発生した野放図でずさんな財政が、その藩の経済価値を生み出している農民にしわ寄せを与え、村が疲弊していると。
 彼らは改革では誰にターゲットを絞り、進めるかが分かっていた。ただそれを露骨にやるか、たとえば、方谷のように領民全員に倹約をさせるように見せかけながら、実は藩士をターゲットにして効果を上げるなど、知恵と工夫を重ねていったのだ。
 またいずれも単に実利的な効果だけを狙った政策ではなく、未来につながる大きな理念に立脚していた。
 鷹山の「民の父母」「伝国の辞」、方谷の「至誠惻怛」「士民撫育」などがそうだ。尊徳の場合は、論語や大学に通じていたため、儒教の「五常」、すなわち「仁」「義」「礼」「智」「信」という徳を基本としていた。尊徳の知恵は極めてプラグマティックだが、その背景には人間が守るべき5つの徳が存在していた。
 先の女中の小遣いの件では指示を出した後、それがなされているかをしっかり自分の目で確認している。尊徳はこうした確認を繰り返すことで、その人の徳を見ていた。

生涯600の藩と農村を再興した
稀代の農村コンサルタント

 尊徳が生涯再興に関わった藩や農村の数は600とも言われている。稀代の農村コンサルタントとも言える。
 尊徳はその過程で多数の報徳金と称する資金を得ているが、彼が世を去った時には田畑は一坪もなく、また膨大な資金もすべて農村復興に投入され、私有財産はまったく残っていなかった。尊徳は再興で得たその資金を再投資に回したからこそ、生涯600という膨大な再興が可能となったのである。

 代表的な中興の祖、3名を駆け足で見てきたが、まだまだ歴史のなかには魅力的な中興の祖、再建の神様がいる。機会があればまた紹介したいと思う。

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