COLUMN ビジネスシンカー

2018.10

[明治維新150年にあたって考える]
大変革時代、明治の先人たちはどう生きたか
混乱の世で事業を成功させた企業家たち

農民から一気に幕臣に上り詰めた「国造りの神」渋沢栄一

 たとえば、みずほ銀行の前身の第一銀行や東京海上日動火災保険の前身、東京ガスの前身、そして事業家と行政、政治をつなぐ商工会議所など、500もの会社・組織に関わり成長させ、日本の「国造りの父」と言われた渋沢栄一がそうだった。

 渋沢は武蔵国榛沢軍血洗島村、現在の埼玉県深谷市の農家の出。維新のわずか数年前の1861年、22歳の時に家業に暇のできる春先だけを条件に江戸遊学を果たすが、当時日本中を巻き込んでいた攘夷論に刺激を受け、のめり込んでいった。

 そして実際に志を同じくした若者とともに、1863年に横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てるが、ちょうどその時、京都で政変が起き、攘夷の急先鋒である長州藩が京都から追放されると、渋沢ら一行はお尋ね者として追われることになる。

 だが人の出会いは不思議だ。渋沢は京都に逃げ、たまたま出会ったのが幕府の一橋家で最期の将軍となる徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の用人だった。渋沢はその口利きで慶喜に仕えることとなる。

 これが渋沢の運命を大きく変えたのだった。

 渋沢の実家は農家でありながら、小作人を抱える豪農で、貸金業も行っていた。このため少年時代より経理、理財に詳しかった渋沢は一橋家で重宝され、一橋家の勘定組頭に出世する。関東や播磨、摂津など一橋家の領地から農兵を集めて編成する仕事も任されるようになった。

 そして1866年、攘夷派の長州を討とうと戦いを進めるなか将軍徳川家茂が大阪城で亡くなると、慶喜に将軍の座が回って来る。ここで渋沢は自動的に幕臣となったのだ。

 豪農とは言え、農民の子が幕臣にまで一気に出世することは通常は考えられないことだったが、すでに江戸の後期では士農工商の原則は崩れ始めており、たとえ農民の師弟でも学問が優れていたり、商才に長けている者は、名字や帯刀を許される者も出ていた。とくに幕末ともなると、国家体制の基盤であった幕藩体制がゆらぎ、身分を問わない実力者が権力者によって引き立てる機会が増えていった。

 それは時代の波でもあり、またその時代に生まれた者の運でもあった。渋沢はまさに運の男でもあった。